その夜は、まだ明けてはいなかった。






『朝を繋ぐ』 前編











田島の携帯電話の扱いはかなり雑なほうで、
充電を忘れて話している途中に通話が切れたりすることもあれば、
落としでもしているのだろうかあちこちに小さな傷があった。
帰宅した後も着ていた服のポケットやカバンの中に放置状態なことも多い。
一斉送信でメールを送っても返事がないこともたまにあり、
その時は花井から追加で電話が入り信用がないことこの上ない。
そんな田島が今日は携帯電話を抱えて、布団に入る。
枕元に置いて開いたディスプレイを見て、頬を緩ませる。
「今日だけは」というより、
「今日からは」の表現が正しいのかもしれない。



『会いたい』という花井からの連絡を田島は待っている。



もしかすると今、この時かもしれない。
明日の日かも、それともずっとずっと先の話かもしれない。
いつでもすぐに「いいよ」と返せるように、
大事な連絡ツールである携帯電話を抱えて、
田島はこれからの日々を過ごすつもりだった。




「おやすみ、花井」
携帯電話に向かって田島はそう呟いた。




その途端に野球部に設定しているメールの着信音が鳴り、
田島は跳ね上がる心臓の鼓動に戸惑いつつ携帯電話を掴み、
そのディスプレイを開いた。
こんな時間に、花井じゃなくて?と思う。
表示された名まえと内容の文面を見て田島は考え込んだ。













失くしたものは何だったのだろう。




宵闇の中を栄口を連れて再び三橋の家まで戻ってきた。
水谷は部屋で、ベッドに赤く目を腫らし座り込んでいた三橋に、
飛びついて抱きついた。
自分の目もきっと赤い。
何にも言葉を掛けることができなくて、そんな自分が不甲斐なくてしょうがない。
三橋の親のところに挨拶に行っていた栄口が、
お茶の乗ったトレーを抱えて部屋に入ってくる。
そのトレーを広めに空いていた床に置いて、こちらに近付いてきた。
水谷のほうをちらと見て栄口は片膝をつきベッドの傍の床に腰を下ろし、
三橋に向き直りその頭を撫でた。
「ごめ、んね。オレ、……オレ」
三橋の目から溢れ出た大粒の涙に水谷は驚いて身体を離す。
沈黙が染み出してきて、陽光を地平の奥に落とした夜の世界に柔らかく溶けていく。
栄口は撫でる手を止めようとはしない。
水谷も三橋の球を投げる右手に自分の両の手を重ねて、握る。
本当は自分じゃなくて、阿部にこそこうしてほしいだろうに。
オレでごめんね、と水谷は思う。
それでも少しでも温もりが伝わればいいなと思う。



「三橋」
沈黙が満ちていた空間に言葉を落としたのは栄口だった。
名を呼ばれても三橋は俯いて涙を落とし続けている。
そんな三橋を栄口は目を細めつつ見る。
「ねえ、三橋」
「……うん」
「……記憶に、負けないでほしい」
三橋はその言葉に顔を上げた。
水谷もまた栄口から目を離せなかった。




「お前を痛めつけるものは全部自分の記憶でしかないんだよ。
水谷に話は聞いたよ。今日の赤い記憶はこれからも再生される。
何度もたぶん繰り返す。それでも、負けないでほしい。
……だって三橋は何も失ってはいないじゃないか。
失ってしまったものはどう足掻いても決して戻ることは無くて、
分かっていてもずっと追っかけていって動けなくなってしまうけど。
……阿部のケガはちゃんと治る。それは分かってっだろ?」
三橋は黙って頷いた。
「阿部の気持ちもちゃんと三橋の傍にある。
阿部自身ももちろん何処にもお前を置いていったりしないから。
大丈夫。何にも失ってなんかない。
だから記憶に負けるな。絶対に負けるなよ」
真剣な栄口の口調とその眼差しに、
水谷もそして三橋も視線を向けたまま動けない。
漂う沈黙は部屋の下方に沈殿している。
しばらくして三橋の左手が水谷の両手に更に重ねられた。
三橋のほうを向くと泣きながらだったが、一生懸命話をしようとしていた。
「阿部、君は傍に……いる?『来んな』って言われたけど、傍にいて、いいの、かな」
「ああ、その辺がやっぱ不安だったんだね。
三橋にケガさせたくないからだよ、そんなの。阿部を信じてあげなよ。大丈夫だよ」
水谷が見た出来事は栄口には全部話していた。
自分だけだったらこんな風に三橋に説明できただろうか。
三橋はやっと安心できたようで、笑顔を見せた。
「……あり、がと。オレ、頑張る、よ。
来てくれて、うれしい。今日、は、ありがとう」
栄口は深く深く頷いて続けた。
「こっからは自分との戦いだぞ、三橋」








三橋の家からの、その帰り道。
別れ難くて道の途中自転車を降り佇んだまま、
夜の闇に紛れているのを幸いに、水谷は栄口の手を握る。
じんわりと感じる温かさに心はいろんなもので満たされていく。



連絡は家に入れてはいるが、もう随分と遅い時間になったので、
栄口を帰そうと握った手を離した。
すぐに栄口の指が自分の手を追いかけてきて、もう1度掴まれる。
「……もう少しだけ、甘えさせて……」
ちゃんと好かれているのだ、という実感がやっと水谷の中に湧いてきた。
繋がれた手に力を込める。
いろんなことを分かってないけど、
自分なりの精一杯で水谷は栄口を幸せにしたかった。






栄口が失くしてしまったものは何だったのだろう。
それってやっぱり……お母さん、かな、と水谷は思った。













もう2度と手放せなくなるのだと浜田には分かっていた。
狂おしいほどの恋情には抗えず、身体も心も傍に引き寄せて。



眠り姫を、起こしてしまった。













帰って来て自室のドアを閉めた途端、
緊張の糸が切れたのか栄口はその場に座り込んでしまった。
今日は長い長い1日だった。



温かいその手を離したくはなかった。
恥ずかしかったけれど勇気を出して、離れていこうとしたものを追う。
大好きな水谷の手を栄口はもう一度掴んだ。
その時のうれしそうな水谷の表情は、記憶に刻み付けて宝物にしたい。



自分が何を今すべきなのかを考える。
まずは花井に電話かな、と、栄口は携帯電話を取り出した。













フィルターのように視界にかかっていた赤い色は、
何の色だったんだろうかと、ぼんやりした頭で三橋はしばらく考えていた。



まるで小さい子が抱えるぬいぐるみのように、
ベッドに持ち込んだボールの数は今日だけは10個を下らない。
これだけあれば夜中に落としても起き上がって探し回ることはないだろう。
ボールの感触は三橋に安心感を与えてくれる。
携帯電話はすぐ傍に置いてある。
ボールだけで寂しくなったら、阿部からもらった言葉を見つめよう。
「阿部、君」
ちゃんと眠ろう、と今はただそれだけを思う。
明日を精一杯生きるために。
またあの赤い色を思い出しても、受け止めて生きていけるように。



まだ何も、失くしてはいない。
確かにそうだった。













花井は自分のパソコンを持ってはいなかった。
いつもよりは早い時間に帰宅して、調べたいものがあるからと
家族に宣言して暫し親所有のパソコンのある部屋に篭る。
いつも何かとうるさい親は今日に限って何も言わなかった。
阿部からのメールに突き動かされて、
また自分の知りたいという欲求には抗えなくて。



目を閉じれば蘇る記憶の映像が自分にもある。
やはり視覚のどこかは侵食されているようだ。



田島はちゃんと眠れているだろうか。
野球では見ることのない不安そうな様子を思い出す。



記憶を追っていきかけたところで、携帯電話が鳴った。
しばらく話したところで敢えて問いかける。
「それでオレは何をすればいいんだ?栄口」



それぞれの夜は、長いように思われた。













泉が目を覚ましたのは、浜田の腕の中でだった。



視線の先、辛うじて視界に入る明り取りの窓から見える、
外の世界にはまだ闇が満ちていた。
背中から浜田に抱き込められているようで、動けない。
ぼんやりとした頭でいろいろと記憶を辿っていき、
そのせいか、熱がじわりと顔まで上ってきた。
浜田の寝息を項の辺りに感じてしまい、何だかくすぐったくもあった。
このまま朝まで、温もりに包まれたままで眠りにつきたかったのだが、
ひとつだけ泉には気になることがあった。
自分の携帯電話の、メール着信音を聞いたような気がしたのだ。
泉は浜田のでかいトレーナーの上だけを着せられており、
携帯電話を入れていたはずの自分の服がどこにあるかが分からない。
朝練習はないと花井からメールをもらってはいたが、
他にも何か変更点があったのかもしれない。
その辺の確認だけはしておきたかった。



「浜田、ちょ、腕、離せ。起きっから」
そう浜田に声をかけた。
身体を動かそうとはするのだが、
目を覚ましたらしい浜田に余計に腕に力を込められた。
「逃がさない」
小さな浜田の声が聞こえる。
「ばっ、バーカ!逃げねーよ!だから離せ!!」
肘鉄を食らわしても動じない。
「イヤだ」
「……浜田」
「何?」
「お前が、好きだよ」
泉の言葉に浜田は驚いたのか、飛び起きてベッドに座り込んだ。
その隙にベッドから泉が転がり出る。
「……夢じゃ、ないよなー」
と言いつつ、浜田はへらりと笑った。
「何言ってんだオメーはよ。オレの服どこに……ああ、あった」
携帯電話を取り出して、開く。
……確認してよかった、と泉は嘆息する。この時間から返事は出せないだろうけど。
「浜田、オレ今日も朝練の時間にがっこ行くから。お前も来れっか?」
「……?何かあったのか?」
「分かんね。でも栄口からのメールで召集かけられた。できればお前も来てくれって」
「今午前2時前か。了解。ならも少し寝れるな……おいで、泉」
浜田は微笑みつつ、泉に向かって手を差し出す。
恥ずかしさで顔を朱に染めつつも、しょうがねーなと泉は再度ベッドに潜り込んだ。



浜田の腕に包まれて、泉は瞼を閉じる。
抱き締められた状態で向かい合って眠るのは初めてで、
緊張でこのまま眠れないような気がして泉は不安に思った。
だが頭の天辺に軽いキスが落ちてきて、
それが合図になったかのように優しい眠りに引き寄せられた。













眠りに落ちる直前に、三橋の声が聞こえたような気がした。
その声は自分の名を紡いでいて、例えそれが空耳だとしても
阿部を穏やかな気持ちにさせていた。



朝が来るのを阿部は待っている。
ただ、待っている。




















さあ、この夜を閉じて
皆で朝を迎えよう



決して新しい朝ではなく
今まで生きてきた
その人生の続きでしかないのだけれど



朝を繋いで
それからの一歩を
踏み出していく勇気を持とう










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*

それぞれの夜。
繋がる明日。




BGM : ACIDMAN 『toward』
(まだこれ。笑。「朝を繋ぐ」のタイトルはこの歌からです)






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