鮮やかな暁を経て、
澄み切った青空が全天にあった。


夜は明けたのだ。







『朝を繋ぐ』 後編











まだ雲の影に闇の気配が残る世界の中、
夜が明けてしまうのを待てずに起きて阿部は外に出た。
大気は冷えていて、冬はもう明らかに自分の手の届くところにある。
仰ぎ見た東の涯、暁の空は目が離せなくなるほど鮮やかな色をしていた。



その暁を三橋にも見せたくて、携帯電話のカメラで撮った。
メールに添付して、送る。
文章を考えて些か煮詰まって「おはよう」の4文字しか結局打てなかった。
ちりちりとした傷の痛みは昨日からずっと阿部を覆うけれど、
心は何も痛くない、とそこは自分を信じたい。
本当はずっと三橋の欲している虹の空を探していた。
なかなか巡り合わず意識の隅に、記憶に残る七色は潜る。
阿部に向かって微笑む三橋を見ることができるだろうか。
できるだろうか、いつものように。
いつものように。
それとも。



変わってしまうことが怖かった。



特別な朝にはしたくなかった。
いつものように、いつもの朝でありたかった。













引き寄せてしまった。



浜田の視界に入る場所で眠っている、
その可愛い寝顔を見れるだけでもよかったのに。
泉の眩しい笑顔を再び見ることができて、
それだけでもう何もいらないと思ってしまったほどだったのに。
浜田は心も身体も、自分の傍まで泉を引き寄せてしまった。



始まりには必ず終わりがある。
終わりたくないからこそ、始めなかった。
それは浜田が抱えている弱さだった。
終わってしまったものも、終わらせてしまったのもたくさんあって、
その結果失くしたものが戻ることは今までにはなかった。
覚悟を決めなければならないのは本当は浜田のほうだった。



泉の携帯電話からはまだ何も音が鳴らないのに、目を覚ました気配があった。
目の前には泉の背があり、片腕だけを被せて抱き寄せる。
「おはよ、泉」
「……お、はよう」
振り返らず声だけが届く。
「栄口に集合かけられたのって、本当は何時なんだ」
「……」
「朝練と同じ時間からって、ちょっと早すぎねーか?」
泉をまだ腕の中に置いて、浜田はそう切り出した。
そこが気になって浜田はあまり眠れなかった。
しばらくの時間を置いて、泉からは言葉が返ってきた。
「きっと、早くから学校に来てると思う」
誰が、という固有名詞はなかったが、
どうやら栄口のことを言っているのだと浜田には見当がついた。
「ああ、そうだな。そうだろうな」
「会いたい」
「……栄口に?」
「会って、ありがとうって言いたい」
「分かった」
そう言って浜田は泉の真っ直ぐに流れる髪に顔を寄せた。



『………もうはっきりしてやんなよ』と、
栄口から言われたのは昨日の保健室でのことだった。
2人に関する事情を唯一知っていたらしい栄口。
ひとつ年上である浜田にいつも気を使ってきた彼だったが、
泉の様子を見かねて訊き難い事を勇気を持って訊いてきた。
『好きじゃないの?』
浜田の記憶の中で繰り返されるその問いに、
何度も何度も声にはせず、答えていた。





好きだよ。






好きだよ、泉が。









浜田は泉の髪に唇でずっと触れていた。
泉はされるがままでいたが、小さな声だけが彼から漏れた。
「はまだ」
「……ん?」
「っ、何でもねーよ。……呼んで、みただけ」
湧き上がるこの気持ちはなんだろう。
腕の中にいる人物はなんて愛しい存在なのだろうと浜田は思う。



首を捩って明り取りの窓を見上げると、
明けかけた空が朱から薄い緑に色を移していた。
もうしばらくすると青空と共に朝がやってくる。







そして、浜田は朝が来るのと共に、
いろんな覚悟を決めたのだ。













指定した時間よりはかなり早く、
いつもの朝練が始まる頃に栄口は学校に向かった。
季節が冬に移ったためか、
空に散らばる雲の色は僅かに濃くなり、青の色を横切っている。
吹く風の冷たさに栄口は身を竦ませた。



水谷の手の温もりをまだ自分の何処も彼処もが覚えている。
ずっと繋いでいたかった。
彼の掌は笑顔のように揺れる髪のように柔らかだった。
その感触は自分を癒すと共に、たくさんの勇気をくれたのだ。
もらった勇気はやがて自分の強さに変わっていけばいい。そう願う。
『すき』
たった2文字だけれど、水谷の声で、イントネイションで思い出すと
栄口の目にはまだ涙が滲む。
この朝にも自分の傍に彼がいて欲しかったのだけれども、
それはできなくて寂しさが募る。
だが今朝だけは水谷には三橋の傍にいてもらわなければならない。
「……ちゃんと、まかせてんだからな」
ぽつりと呟いた。



自転車置き場に自転車を押し込んで、前カゴに入れていたカバンを持ち上げる。
固いプラスティックのカゴから角が引っかかってなかなか抜けず格闘していると、
突然に後ろから誰かに抱きつかれた。
「うあっ」
「……栄口」
「泉?」
栄口は首を後ろに捻って、今自分に抱きついているのが泉だと分かった。
メールで伝えた集合時間にはまだかなり早い時間だった。
間違って時間を伝えてしまったのだろうかと焦る。
「どうしたの、」
「ありがと」
泉の顔は伏せられていて、表情が見えない。
「今までいっぱい心配かけてごめん。ありがと!」
更に首を捻ると、少し離れたところに浜田の姿があった。
よく分からないが、笑っているように見えた。
「泉、ちょ、ちょっと力緩めて」
慌てて言うと、回されていた腕の力が緩んだようなので、
栄口はカバンから手を離して、
抱きとめられたままだったが泉の方に向き直った。
やはり表情は見えない。
浜田を見ると照れたように笑っている。
こちらに近寄る気配はなく、ただ頭を掻いていた。



ああ、もしかすると。
昨日あの後2人で帰って、何かあったんだろうか。
お互いの想いがようやく通じ合ったのだろうかと思う。



見れば泉の頬は赤い。
「待ち伏せして、ごめんな。
でもどうしてもありがとうって言いたかったんだ」



泉のその言葉に湧き上がるうれしさが朝の光と交じり合って、
栄口の居る世界をいっぱいに満たしていた。













朝の光が静かに空を、世界を満たすのを見つめつつ、
栄口が来るのを泉は学校で待っていた。
突然抱きついて、さぞ栄口は驚いたと思う。



どうしても言いたかったのは「ありがとう」。
泣きついた電話の向こう側で、掛けてくれた優しい言葉を泉はたぶん一生忘れない。
「またいつでも電話してきていいから。辛い時は泣いていいよ」
抱き止めた腕の中で栄口がそんなことを言う。
「ば、ばーか!もう泣かねーよ!」
顔を上げると、うれしそうににこにこと笑っていた。
「浜田の前ではも少し素直に泣いてもいいんだよ」
そう言われて暫し詰まった。
「笑っても、泣いても、いいのかな。……それはそれでなんかくやしーんだけど」
「またそれはなんで」
「だってオレばっか弱み見せてる」
「好きになるってそういうことかもしれないなあ。
泉は……今まで以上に浜田の中に踏み込みたいんだね」
まさにその通りだったので、黙ってただ頷いた。



「で、昨日あれからどうなったんだ。
メールの返事もできなくていろいろよく分かってねーんだけど」
問われて、栄口の笑顔に少し陰りの色がのったのを泉は見逃さなかった。
「……うん、ここじゃなんだから部室に行こうか?」
「おう。……浜田ぁ!行くぞ」
「ほーい」と浜田から声が返る。




世界が光る。
泉にとって眩しく輝く朝だった。














「いつもと変わんない空なのになあ」
田島は部室の窓から明け始めた空を見つつ、溜息つきつつそうぼやいた。
玄関を出るまではあった朱の色は今はもう見えない。
見上げる空の青の色は段々と濃くなっていって、
今日も天気はいいようだった。



雨が降っているわけではなく、雷でもなく大雪でもなく、
台風が直撃しているわけでも、もちろん大嫌いな試験前でもないのに朝練がない。
野球ができない。
もちろん事態の重さは田島自身もよく分かっている。
どうも面倒なほうに話が転がっていってそうだというのも、
栄口から夜中もらったメールの文面からも窺える。



だからこそ、田島は部室に一番に来たのだ。
地の利を活かし、朝練が始まるいつもの時間に。



なのに呼び出した本人である栄口が、
部室のドアを開け放ったまま呆然と立っているというのがちょっとだけ納得いかない。
彼の後ろには泉と浜田もいて、
心配だったのは田島だけではないというのが分かる。
他の連中もすぐにやってくるだろう。
阿部と三橋は朝にはここに来ないとメールの文面にはあった。
阿部はまだ分かるが何故三橋もなんだろう。
昨日保健室で目が覚めて三橋は水谷と阿部に会いに行ったらしいと花井に聞いた。
まだ体調がよくないのだろうか。
それとも。
「……あの後、三橋になんかあったのか?」
「田島……」
「阿部がケガしてんなら、三橋の捕手はオレだかんな」
田島は真っ直ぐに栄口を見る。
昨日から抱え続けている怖さは気取らせず、ドアに駆け寄り近付いた。
「皆揃ってから事情は説明するよ。つか後ろ閊えてるし、入ってもいいかな」
「三橋と阿部は来ないんだろ?三橋はどうしてんだよ」
畳み掛けるような質問に栄口はその場で苦笑した。
泉と浜田も黙ったままで事情をよくは知らないようだ。
「ここには来ないけど、水谷に朝迎えに行ってもらってる。
学校にはちゃんと来るよ。大丈夫だよ」
「……っ花井は、花井!」
「花井は今頃阿部に会ってるはずだ。朝はここには来ない」
田島は言葉を失ったまま立ち竦んだ。



何故だか無性に野球がしたかった。
球を追って駆け回りたかった。






こんなに空は青いのに。













花井の目の前、自分の部屋の床に腰を下ろし片膝を抱えて、
窓から空を見上げている阿部は大変不機嫌そうな面持ちでいた。
「こんな朝早くから、何故お前がオレんトコに来るんだ」
開口一番がそれかよと、花井はひとり愚痴た。
「主将としてはケガ人が心配で……じゃねーけどっ。
昨日のメールを覚えてないとは言わせねぇぞ、阿部」
「三橋はどうしてる」
「三橋の心配より自分の体の心配をしろよ。そっちこそどうなんだ」
花井は額に手を当て、大きな溜息をついた。
「こんなちょっと数が多いだけの切り傷、たいしたことはねぇよ。それより三橋は、」
「大丈夫だから、今日は登校も水谷が一緒だ」
畳み込むように言った。
「……それは、大丈夫っていうのか」
言外に「水谷で」と言われているようで、花井は力なく笑うしかない。
「この辺どっか座っていいか?メールの件、一応調べて来たんだが」



昨日のメールで阿部は、「フラッシュバックってどんなもんなのか」、
「三橋はPTSDとかなったりすんのか」と、そう問うてきた。
シガポの薀蓄についていけてんのは花井くらいだから、と阿部は言う。
たまに聞く用語ではあるが自分の持つ乏しい知識だけで答えることは憚れて、
帰宅後インターネットを使って調べてみた。
昨日阿部の家で三橋に何が起こったかを聞かされて、
その影響の大きさに花井は戸惑う。
「フラッシュバックは一言でいうと再現視、かな。
ただ思い出す、というのとは違って、
何度も自分の中でその時の状況がまんま再現されるらしいんだ」
「……オレを見るとそうなっちまう、ってことか」
顔を伏せ俯いたまま掠れた声で阿部は言う。
「そうじゃない」
阿部の不安はまさにそこにあると思ったので、花井は即座に否定した。
「フラッシュバックは突然やってくる。
無意識に思い出されて、それが現実に起こっているかのような感覚に囚われるらしい」
『いつ、何処でフラッシュバックは起こるか分からない、だからこそ怖い』と、
そう花井に言ったのは電話の向こうの栄口だった。
体験したことがあるような口振りだった。
「確かに、あの感覚は……悪い意味で記憶に残るな」
花井は言葉を漏らす。
阿部は顔を上げて花井のほうを見た。



ガラスの割れる音。
流れる血の色。
喧騒の中、明らかに異質な状態。



視界を始めとするあらゆる感覚が侵食されていた。
それだけが特別だった。



「上手く言えないが、お前がケガした時のあの情景が、
オレにもまだ、目に焼きついて残ってしまってんだよ。
視覚的にっつーか、そんな感じで。
オレでさえそうなんだから、三橋にとっては推して知るべしだと思う。
だから昨日モモカンには篠岡のところに行ってもらったんだ」
「何……?篠岡?」
「あいつも昨日、傍で見てるから一応な。打てる手は打っとかねぇと」
「……なるほど。さすが主将と言うべきか?」
「阿部、褒めても何も出ない。それとPTSDについては、今は断言できない」
「何故」
「……今の三橋は最悪の場合で急性ストレス障害(ASD)なんじゃないかと思うが、
水谷や栄口から様子を聞くとそこまではないかもしれない。
三橋が言うところの赤いやつ……、フラッシュバックはしばらく続くかもしれないけどな。
フラッシュバックだけだったら、大丈夫かもしんねぇ。
それをまず頭にいれろよ。お前、不安になりすぎんなよ。
で、PTSDってのは心的外傷後ストレス障害っつって、
その急性のストレス障害が1ヶ月以上続く場合をいうらしいんだ。
だから今は断言はできない。それはしちゃいけない」
それだけ一気に花井は言うと、2人の間に沈黙が落ちた。
阿部は窓の外の空を、黙って見つめていた。



暫しの時間を置いて、花井は続けて話し始めた。
「皆を今朝部室に集めて、栄口から昨日のことを説明してもらうことになってる。
放課後はシガポやモモカンとも話し合って、これからの練習メニューも考えていく。
阿部、お前は早く傷を治して三橋を安心させてやれ。
それが、三橋を落ち着かせる一番の早道なんじゃないかとオレは思う」
阿部は花井のほうを真っ直ぐに見遣り、そして大きく頷いた。
「こんな傷、がんがん食って寝て、すぐに治してやる」
「ああ、そうだな」
「取り急ぎ今日のメニューはどうする?」
「それなんだか……」
主将副主将が揃えば、そこからは自然と野球の話にシフトされていった。



花井は息をついて、先程まで阿部が見上げていた窓の外に視線を移す。
冬を迎えたばかりではあるが、その空の色はまだ綺麗な青色をしていた。
細めの雲がゆっくりと流れていく。
こんなにいい朝なのに、野球が出来ないのが残念でしょうがない。
田島あたりはきっと焦れているだろう。






日常がこんなにも尊いとは思わなかった。
当たり前のように野球ができている、
その、日常が。













阿部の視線が切り取った空を三橋は大事にしたかった。
同じ空を見ることができるのが、ただうれしかった。
落ち着いたその青い色も、朝の光を通す流れる雲も。
三橋は窓の傍に寄って、空を見上げた。



「きれい」
そのままぺたりと部屋の床に座り込んで、
携帯電話に阿部から送られた写真を見つめる。
「阿部君の空も、きれい、だ」
阿部の不器用な優しさが滲みていって、
それが緩やかにではあったが三橋の心を癒していく。



視界が赤い色に染まることは再びあるだろうか。
記憶に負けないで、前に進むことはできるだろうか。







ただ、それでも、と三橋には意識のどこか奥のほうから、
自分の声が聞こえてくるような気がするのだ。
上手く最後まで聞き取れはしないけれど。



『それでも、オレは、あの時、』と。
まるで叫ぶように。













昨日の別れ際に水谷は、三橋とひとつだけ約束をした。
「また目の前の全部が赤い色に染まった時は、
その時でもいい、後からでもいい、必ず誰かに伝えるように」



記憶の再現で何度も傷がつくのならば、その度幸せを重ねて癒していけばいい。
そう三橋に、同じ場にいた栄口にも向かって言ったら、
2人に泣かれてしまった。
「辛かったら野球部でも7組、9組の誰にでもいいからちゃんと言うんだよ。
阿部絆創膏をすぐに連れて来るからね」
「ば、ばんそうこう……。阿部君、は、ばんそうこう、なんだ」
「ケガには絆創膏を貼ってさ、自分の治癒力で頑張って治していくんだ。
ぎゅって抱き締めてもらって何度も安心すればいいよ。
阿部のケガはちゃんと治っていくし、大丈夫だとその度確認していきゃいいと思うんだ」
「水谷……お前って……」
栄口が驚いたような表情で水谷を見ている。
「そういう考え方って変かなあ?」
「……ありがとう」
止まらない涙をそれでも拭いつつ栄口が泣きながら、水谷に抱きついてくる。
「もっと早くにお前と出逢っていればよかった」
と、消え入るような声を零していた。










ピーカンに晴れた空よりは、雲が有る空のほうが水谷は好きだった。
刻々と流れている雲を見つめるのが好きだった。
小さい頃に雲の形を見て、「あれは苺」だの「これはメロンパン」だの
食べ物に例えることもよくやっていたように思う。
今朝の空は穏やかに晴れていて、
風の冷たさはやはり冬を感じさせるものではあるけれども、
細く流れる雲がやけにキレイだと水谷は思った。



「みーはしーぃっ!」
玄関から出てきた三橋に水谷は自転車に乗ったまま手を振り、その名を呼んだ。
三橋は息を弾ませて駆け寄ってくる。
「……お、おはよっ」
「おはよう!」
今日という新しい一日に、光はあると信じている。
三橋に向かって手を伸ばした。




「がっこいこ!三橋!」









明けない夜は、ない。



朝は来るのだ。

















明けた空を
見上げる、見上げて



それぞれの視界の空を切り取って
心に仕舞われる青空のかけら






迎えた朝は
今まで生きてきた
その人生の続きでしかないのだけれど



独りきりの朝ではなく
大切な仲間とこの光溢れる朝を繋ぐ
















*

朝を繋いで。
また今日を始めよう。




BGM : ACIDMAN 『toward』
(まだこれ。笑。「朝を繋ぐ」のタイトルはこの歌からです)






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2008.3.14 up