ふたりでいっしょに
つきをみよう






『月の舟』






昼間は穏やかに晴れていた。
春に向かう季節の空は闇を少しずつ取り込んで暮れゆき、
黒い影を落とす雲はまだいくつか点在しているだけだった。
陽が落ちてすぐの藍色の空には上部のほとんどを闇に溶け込ませた細い月が浮かんでいた。
満月ならば東の空に月白を携え、
高く空に上がるまでは光よりもその丸い姿自体の存在感が大きいが、
細すぎるほどの月は空に視線を投げかけて初めてその存在に気付く。

学年末考査は目前で、野球部では恒例の勉強会が始まっている。
さっさと風呂を済ませ、カレーが詰まった鍋を両腕に抱えて泉は浜田の家に向かう。
バイトで不在の浜田の帰りをのんびり待とうと思ったのだ。
考査前の慌ただしさは学校中を包んでいるが、赤点さえ取らせなければ(取らなければではない)、
無事に野球部は全員迫り来る春からの次のシーズンへ、2年生へと上がることができるだろう。

細い月を視界の端に入れつつ、歩く。
まだ夜は冷え込むこともあるけれども。

春は、もうすくそこまで来ている。



「うーん、……やっぱ月は見えねーな」
浜田の寝室、彼のベッドに寄りかかり顔を上げていた泉はぼやいた。
「ん?どした?」
バイトから帰ったばかりの、部屋に入ってきた浜田が疑問符を投げる。
「ほそーい月」
「……月?」
「すーぐ西の空に隠れちまうからかな。こっから見えねー」
『こっから』と、泉は明かり取りの窓を指差す。
「綺麗だったんだけどな」
グラウンドでよく夜空に佇む月を見ていたせいか、
夜の空を見上げると泉は月を探すことが多くなっていた。
「確かに細いやつは見えないなあ。満月はたまーに見えっけど」
「ん〜」
頷きつつ掠れた声が出る。
未だに忘れられない、浜田との関係を変えたあの夜には確かに満月が見えていた。
「泉、ご飯食べよう。カレー温まったよ、待たせてごめん」
「んーっ」
伸びをひとつして、立ち上がる。
年度末である。
淡い光の月を思いつつ、浜田がバイトから帰るのを泉は待っていた。
一緒に食べようと思い、自分の分の晩御飯も一緒に持ち込んでいたのだ。
カレーを食べてからは心置きなく進級するための勉強会だ。
二人きりのその時間は日常というカテゴリに組み込まれてしまっていて、
野球ばかりの毎日の中での癒やしとなっていた。

部屋の中だけれども視線を空に向かって泳がせる。
見えるはずはない、ましてや月などは。
「あんなほっそい月、うさぎが落ちるとガキん時は心配してたなあ」
「あら、こーすけくんたら可愛い」
普段はしない名前呼びが癪に障る。
「るせ」
「……うさぎねえ。舟に乗っているんだと思うけどな」
「ふね?」
「そう、月の舟」
小さな小舟に身を寄せ合って乗っているのだと浜田は言う。
実際には月にうさぎなんかいないし、細くなってしまうこともない。
ガキの頃の思い込みだとの理解はしているものの、
自分の思いを大切にしてもらっているようで泉はうれしかった。
そんなところも、好きだ。





最初はただの先輩後輩だった。
同じ野球チームにはいたが、
少しずつケガで追い込まれていく彼の姿を見ていることしかできなかった。
家もすぐ近くだったが、幼馴染と簡単には呼べないほど、
二人の間にはたった一年の年齢差という壁が立ち塞がっていた。
ただその距離は、浜田が西浦高校を留年したことで一気に縮まることにもなるのだが。
同じクラスにはなったけれども、クラスメイトや同輩というカテゴリにも今更馴染むはずもなく。
宙ぶらりんの関係は、漸く野球で繋がっているようにも泉には思えた。

「もうきっと何処にも戻れねぇから。
ただの幼馴染にも先輩後輩にも絶対に戻れねぇから」

あの時の浜田の言葉が、未だに胸には残っている。
もはや泉には、互いの関係をなんて呼べばいいのか分からないでいた。





月は既に西の空の視線すら届かない下方に落ちてしまったのだろうか。
泉には確かめる術(すべ)もない。
良くも悪くも考査前である。
意識を勉強というものに向けないといけないはずなのだ。
野球をしていない時間には詮無いことを考えてしまう。
シガボ作成の楽しい問題用紙と格闘している浜田を前に、泉ははあと小さくだが溜息を吐いた。
斜め前に座っていた浜田の手が、泉の髪に触れた。
「なんかさ」
「何だよ」
「なーんか今日はいろいろ考えてる?」
「オメーは目の前の方程式のことを考えてろよ」
「うん。で、何考えてんの」
「……」
「言って」
真顔で、そして視線はきっちりと泉を見据えていて。
そんな浜田には抗えない。
「んーとさ、……オレたちの関係ってなんだろなあって思って」
「関係」
「先輩後輩でもねーし、チームメイトでもねーし、友達か?」
「お・と・も・だ・ち」という音を更に泉は重ねる。
流石に指は振らないが。
そのよく耳にするイントネーションと言葉のギャップに思わず自分で笑ってしまう。
ひどい、と小さな声が浜田から落とされる。
「クラスメイトじゃん、一応!」
「来年は離れちまうかもしんねえだろが」
「同級生とか」
「なんかうっすいな。そんなもんかな」
「……選択肢に恋人っていう表現はないの?」
「!!」
瞬間、自分の思考を根こそぎ何かに持って行かれたかのように、泉は呆然となる。
ぽんと何かが胸の奥で弾けたような気がしていた。
腕は勝手に動き、目の前にあるノートを真横に飛ばしていた。
「うっわー!こーすけくん顔真っ赤!!」
「るせえ!茶化して名前を呼ぶな!」
「ああ、なんだそっかあ、うれしいなあ」
破顔する浜田に、泉は焦りを隠せないでいた。
「自己完結すんな!何喜んでるんだばぁか!」
「可愛い、ほんと可愛い」
「爆笑しながら言うな!!」
紛れもなく浜田のことは、
そういう意味(どういう意味だっつの!と脳内の泉が叫んでいる)でちゃんと好きではある。
もちろん共通理解もされているはずなのだが、
「恋人」というリアルな表現を受け入れたことはなく泉は大いに困惑した。
ただ、にこにこと満面の笑顔を見せる浜田を見てると、
思い悩んでいる事自体がバカらしく思えてくるのも事実で。
些か先程とは性質の違った溜息が零れ出た。
「まあ、いんだけどなんでも」
「泉、あのさ」
「んだよ」
「名前がいるかな?」
「……」
「オレは泉が傍にいるだけでいんだけど、……だってさ、同じ舟に乗ってることが大事」
「それって、」
「月の舟だよ」

細くて二人で乗ったらぎりぎりの大きさで。
不安定でも、揺れまくっていても二人で乗っていくのだろう、きっときっと、この先も。

「うさぎって柄じゃねーし」
「どっちが?」
「そりゃオメーだろ?」
「だよなあ。泉はうさぎ似合いそうだもん」
「誰が!?」
「あ、ヤバい!今日、もちろん泊まれんだよね?」
部屋の掛け時計を見て浜田が声を上げる。
「つかオメーのやつ!終わんねーとまず寝れねーかんな!そのプリント明日の朝にシガポに提出!」
「マジで!?」
野球部の勉強会のプリントだった。
脳裏にシガポの怖い顔が浮かび、泉は小さく震えた。
意を決して浜田と共にプリントと向かい合おう。
この学年末考査をなんとか克服すれば、野球三昧の春が、
西浦高校野球部としての春が再度やってくるはずなのだ。





それは寝際にだった。
日中は大分暖かくなってきたが、さすがにまだまだ夜は冷える。
片付け物をしている浜田を横目で見つつ、浜田のベッドに潜り込んだ。
しばらくして、うつらうつらと眠りを引き寄せ始めた泉の、羽毛の掛布団の上に重さが混じる。
掛布団ごと抱き締められている。
思わず息を潜めた泉の耳に聞こえてきたのは小さな、小さな声。
「……起こしちゃってごめん、姫」
「姫ってなんだよ」
もう眠ってしまったと思っていたのだろうか、
息を飲む音が聞こえてくるような、そんな気配が伝わる。
返事をしたことで驚かせてしまったようだ。
「!いや、えっと、……眠り姫的な?」
「何言ってっかわかんねーぞ?オレは今から寝る!」
訳分かんねえと泉は思う。
寝てようが起きてようがオレはオレだと泉は思うのだ。
「うん、……おやすみ」
ぼふっと掛け布団の中から浜田を軽く殴る。
すぐに笑い声が落ちてきて、漸くそこで泉も安堵した。
「……好きだよ、泉」
思いもかけず優しい声が落とされて涙が滲む。
独りでぼろぼろになって泣いた情景が思い浮かぶ。
あれは秋だった。
だがここで想いを素直に言葉にできないのは、泉の泉たる所以である。
「んなことはちゃーんと知ってんだよ、ばあか!」
「うん、でも言いたかった。おやすみ泉、また明日」
布団の上から撫でられて、その感触が心地良かった。
あんまり優しくされると堪えている涙が零れ落ちそうだ。
それきり静かにはなったが浜田の気配は近くにある。

日中は大分暖かくなってきたが、まだ夜中には十分に寒さが残る。
やがてとろりとした眠気を迎え入れて、泉の思考は夜闇に霧散していく。
浜田はもっと自信を持っていい。
ずっと傍らにいる覚悟など、とうにできている。
ただどれだけ浜田良郎という人物に自分が惚れているかなど、一生知らなくてもいい。
絶対に教えてなんかやらない、自分でちゃんと気付けと泉は思う。

大事なのは、自分が、自分の意志で浜田を選び側にいるということ。





何度眠って起きても、そこに日常があればいい。
幸せな今日の続きであるようにと明日を思いながら、泉は両の瞼をそっと閉じた。



果たしてうさぎになった夢は見ることができるだろうか。

揺られている。
きっと乗っているのは。

愛しい人と二人で揺れる、月の舟だろうから。











あとは最終話でエピローグ的な
「繋がり」を残すのみです。











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2019.5.1 up