ふたりでいっしょに
あめをみよう






『天泣(てんきゅう)』






「雨が降ると思い出すんだ」と栄口はそんな事を言う。
日直だった水谷は学級日誌とじゃれ合っていた視線を、
栄口のいる南の窓際に移した。
終日どんよりと立ち込めた色の濃い重たそうな雲は、
雨の予感だけを二人きりの7組の教室に漂わせている。

春待ちの季節だった。
学年末の慌ただしさもあり、
県大会も控えて高校野球の世界も夏に向けて動き出していく。
今日は雨になるだろうが、
世界の色はその輝きを日々増していて、桜の開花もすぐだろう。
春は確実に近づいている。
だが、最近の栄口はあまり元気がないようで、
水谷にとっては気がかりのひとつだった。
いつも笑顔だけれど、分かるのだ。
また自分が何もしてあげられないことも、分かってしまうのだった。
せめて、触れる距離にいれたらいいなと思って、
水谷は席を立ち、栄口の横に並んだ。
真横にある、小ぶりの可愛い頭を撫でてもいいだろうかと不意に思ったが、
この瞬間の静かな空間を壊してしまいそうでできなかった。
できない自分がもどかしいが、いつものことだった。

窓は開いていないが、雨の匂いがどこからか入り込んでいる。
「雨が降るとね」
「うん」
「思い出すんだよ」
「何を?」
「ねえ、お願いがあるんだけど」
畳み込むように栄口から落とされた言葉。
珍しい、と水谷は驚く。
こんなにストレートに栄口から、
お願いごとを口にされたのは初めてではないだろうか。
「思い出すんだ。雨の匂いとね、……指の感触」
そろり、と視界に現れた栄口の指がある。
「もっかい触りたい、いい?」
「……」
「……いい?」
指が、頬に微かに触れている。
「ねえ、水谷」
噎せ返るような雨の匂いを唐突に思い出す。
同時に蘇る感触の記憶がある。
あれは誕生日だった、栄口の。
「しゃがんでよ、ちょっと」
同じようなことを言われたと思う。
あの時も。
たしかに立ったままだと、何処からか見えてしまうかもしれない。
教室の床に二人座る。
「…ちょっとだけ、オレの言うとおりにしてよ」
「っ」
「動いちゃだめだよ。喋ってもだめ」
眉根を寄せながら泣きそうに笑っている栄口が可愛くて、
水谷は顔を近付け、触れるだけのキスをする。
「キスは?」
「……ばか!」
指は小さく動き始め、水谷はもう口を開かず、
栄口をただ見つめていた。



ばらりとどこからか音がするようで。

ばらりばらりとどこからか音はするようで。
次の瞬間。
記憶と現実は混濁したまま、窓の外の視界は濁っていくのだった。

雨が降っている。
空が泣いている。
窓に零れて落ちるのは、たくさんの雨の雫。

目の前では、栄口が、静かに泣いている。
そして「どうしたの」とは、訊けない自分が同じ世界に存在していた。



「桜が咲いたら、きっと思い出すんだ」
小さな嗚咽と掠れた声が、教室に響く。
慣れてしまったはずの、
何もできないもどかしさを抱えるのが今の水谷には辛い。
「それが、怖くてたまらないんだよ」
泣きながら、触れる指はこめかみに移動する。
さみしいという気持ちは、今もそのままなんだろうか。
抱きしめたいなあ、と思うと止まらなくなった。
「あ、ちょ、こら」
細い背に腕を回して、抱き寄せる。
きっと想っているだけではダメなんだ、と水谷は考える。
自分から動かなければ、
言葉にして言わなければ伝わらないものがあるのだ。
「さかえぐち、だいすき」
「動くなって、……言ったのに」
「こんな顔、いつでも触らせてあげるよ」
「……っ」
「笑っていても泣いていても、どんな栄口でも、好きだ」

春の雨が降っている。
暖かくなってきた風に煽られて、窓をキャンバスに雨粒が踊っている。
風のせいだろう窓枠の軋むような音に、驚いて水谷は顔を向ける。
「……空も泣いているね、ねえ栄口」
「……」
栄口の腕が、水谷の背中に回される。
温もりがこんなにも愛しい。
そのまま二人、雨を見ながら抱き締め合った。




春の日に出逢って、それからくるりと四季が巡っても、
何も変わっていないだろう、小さな自分。
そんな自分でも想いを寄せる人の傍らにいれたらいい。
いることができる、優しい世界がここにあると信じているのだ。








「桜の記憶」に続く話となっています。











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2018.12.16 up