ふたりでいっしょに
にじをみよう






『虹の柱』






三橋が阿部の元へ戻ってきたのは、月も凍るような真冬の夜を駆けた後。
背の温もりだけをまだ繋がっていることの証として再度伸ばされた手を掴み、
抱き寄せ、己の懐に閉じ込めることができた。
それからは穏やかな日々だった。
真冬に大きな公式戦はなく、春季大会に向け様々なトレーニングをこなす日々である。
校庭に数本ある梅の木に蕾がついているとうれしそうに語っていたのは誰だったのか、
鼓膜から入った情報はあっさりと興味がないものと認識され流されて阿部は覚えてはいない。
だがグラウンドに見学に訪れる中学生の姿もちらほらと見かけることがあり、
ここで野球をして、一年が過ぎるというのが実感として湧いてくる。
春待ちの季節である。
西浦高校に入学し、三橋と出逢って漸く一年が経とうとしていた。



世界には雨が降っている。

夜中から断続的に降り続いていた雨は大分収まりを見せたが、
夜が明けるはずの時間になってもまだ残っていた。
残ったものは春らしい細い雨。
東方の空は雲で覆われてはいるが少しずつ白んで来ていて、
やがてこのまま明けていくのだろうと思われる。
登校前にダイニングルームでついていたテレビの天気予報では、
雨は朝のうちだけで段々と明けていくようなことを言っていたが、
さすがに朝練の時間には間に合わないようだ。
雨の日の投球練習の打ち合わせは、
周囲に人のいないグラウンドのベンチ内で三橋と二人きりで行うことにしている。
湿気のせいだろうか、阿部の目の前に現れた三橋の髪はいつもより跳ね回っている。
恐らくは自分もだが。
「……お、おはよ」
笑顔が今日も可愛いなと、阿部は思う。
口にも態度にも出すつもりはないが。
自分は自分なりにちゃんと三橋を想っている。
「おはよう、レン」
「ウヒ」
微かな雨の音が鼓膜を鳴らしている。
色彩を無くしたグレーの膜で覆われた、
まるで絵画の部分に入り込んでしまったような風景の現実感のない朝だった。
三橋は空をずっと気にしている。
雨が止めば少しでも投げたいと思っているのが丸分かりで、
そんなところが本当に可愛らしい。
出逢った頃は彼の一挙一動に苛ついていたことを思えば、
緩やかな時間の経過を本当に実感せずにはいられない。

ベンチで昨日のミーティングで出た大事なところの再度の確認と、
これからの見通しなどを話していく。
ほんのちょっとの時間でも顔を向けて対話することは冬になってからのルーティンと化していて、
今後もずっと続けていきたい習慣だった。
手元のクリップボードを見ながら三橋との練習内容の打ち合わせを進めていく。
三橋の頭はグラグラと揺れていて、
キョロキョロと視線は彷徨っているがいつものことなのであまり気にしないようにしている。
穏やかな日常が今日も始まるのだろう。
始まって続いていけばいいと阿部は思う。
今ではその尊さを痛いほどに知っているのだから。





意識の端の方で、音の所在を探し始める。
静かに下りてくる雨は止んだのだろうか、細やかな音も聞こえなくなっている。
雨を降らす雲の向こう側で太陽が上ってきたのか、視界が急に明るくなった気がする。
ほぼ同時に三橋の動きが止まる。
どうしたのかと思い、阿部は声を掛けた。
ベンチ内が明るさを増してくる。
だんだんと厚い雲が東の方から天地を裂くように動いていって、
太陽の光が差し込んできているのだろう。
「そ、空!」
三橋の声、指差れた西の方角に視線を動かす。
急激に変化していく光景に
光の筋の幅が増して、そして。

太陽が昇る方角とは反対側の世界の両端に広がるのは雲。
中央には所謂七色の光が地とは垂直に並び、伸びていた。
虹だ。
驚くべきはその大きさだ。
前方の視界の7割ほどを虹が、太すぎるほどの虹の柱が占めている。
その太さは例えれば学校の近くを通る大きな二車線の道路幅いっぱいくらいだろうか。
雲のスクリーンに縦に色を分かつ虹が映し出されているようにも見える。
空の天辺の高いところは雲に隠れて見えない。
厚い雲があちらこちらに散らばっていて、虹の全景は見えないのだ。
見えたとしてもとてつもなく大きなものであるだろうという予測はできる。
今三橋と見ているものが、虹の始まりなのか終わりなのかすら分からないでいる。
どちらかではあるのだろう。
真っ直ぐ、真っ直ぐに立つ、大きすぎるほどの虹の柱に阿部は興奮が隠せない。
先に立ち上がりグラウンドに出たのは三橋で、それを追うようにして阿部も腰を上げた。

一緒に虹を探そうと自分が提案したのはいつだったか。
あれからいろいろなことがあった。
うれしいことも辛いことも、様々なことがあったのだ。
なんだかんだあって「レン」呼びが馴染んでしまった最近ではあるが、
阿部はこれまでの二人の時間を瞬時に思い返していた。
「レン!」
「すごい、ね!」
「ああ、ほんとにな」
「あべ、あべくん、すごい、よ!」
自分に向けた大きい瞳には涙の膜が張っている。
「ばーか、泣くなよ」
阿部は三橋の頭をゆっくりと撫でる。
見たかった虹、漸く一緒に見ることができた今、阿部の胸には歓喜の思いが溢れ返る。
三橋はずっと虹を探していた。
ささやかな、でも簡単には叶わないだろうと思っていた二人だけの願いが叶う。
それがどんなに幸せなことなのか、
大人になって記憶を辿った時にも覚えていられるのだろうか。



ぱらりと雨が。
止んだと思っていた雨が、また音を伴って落ちてきた。
慌てて阿部は三橋の手を取って、彼をベンチ内へと戻す。
東に昇り始めた太陽を隠すように雲が早い動きで広がっていく。
世界が再度暗くなっていく。
虹は端のほうから雲に紛れて消えていこうとしていた。
段々と。
「やべ!」
慌てて携帯のカメラを向け、阿部はその虹の柱を写真に収めた。
「と、撮れた?」
「あんま綺麗じゃないけどな、なんとか。……ちゃんとそっちに送るから待ってろ」
「……消えちゃうの、にじ」
大きい瞳をうるうると涙で滲ませて三橋は立ち尽くしている。
「おい、……泣くなって」
口の端を自分も歪ませながら、
熱くなる目頭を自覚しながらも三橋に言うと、急に抱きついてきた。
そして前触れ無く自分の頬に触れる三橋の柔らかい唇に動けなくなった。
「あべ、くん、スキだ」
「……お、おう」
「ずっと、オレ、虹が見たかった」
「ん、知ってる」
「一緒に、見れて、よかった」
偶然にしては凄すぎる。
「阿部君、ありがと!」

三橋は阿部を見て、そして顔を上に、消えかけの虹に向かって手をかざす。
「おおきい虹…きれい」
かざされた三橋のその手に、阿部はそっと自分の手を重ねた。
阿部も三橋も見ていた。
東方からの光が今日のを始まりを告げて虹を見せた、そんな空を。
心を少しずつ繋げたと信じながら、2人で手を繋ぐ。
光在る日々をちゃんと記憶に残していこうと思う。

雨脚が急に強くなってきた。
ベンチの上部を叩く雨音が響いている。
雲が動く。
世界は光を雲に遮られている。
その動きはまるで何かの動画を早送りで見ているようだ。
西の空には雲がまた広がり、虹はもうその欠片も見えなくなっていた。
雨だけが、降っている。




世界には雨が降っている。
少し前の時間と同じように。
今日もまた、穏やかな日常が始まっていく。

だが確かに、現実として虹の柱を見たのだ。









阿部、お誕生日おめでとう!

青空シリーズの『そら』を読みつつ、この話を書き上げました。
実際「虹の柱」は過去に2度ほど見たことがあります。
当時まだガラケーで尚且つ通勤の車内(運転中)で見たので、
カメラにその光景を収めることができなかったのが残念でなりません。
上手く文章にできなかった自分も……(>_<)
ミハの阿部君呼びは変えないで頑張りたいこのシリーズ。
アベミハでは最終話を残すのみです。









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2017.12.11 up