2人の狭間に横たわる
夜をただ駆けていく





『夜を駆ける』






真冬の季節には夕闇と夜闇が早い時間から交じり合っていて、
淡く消えそうなくらいに薄くなる太陽の光を切り落としたように、
唐突に夜が落ちて来る。

落ちた夜が空の何処も彼処もに染み渡った頃、
阿部の携帯電話から聴こえてきたのは、掠れてはいたが確かに三橋の声だった。
液晶画面に表示されていた名前を見て一瞬訝しんだが、
間違っているわけではないと思いたい。
まだ夜の入口で、時間もそんなには遅くない。
今日のミーティングの内容で何か分からないところでもあったのか?
それとも練習内容に関する相談だろうか。
阿部に電話をしてくるのは、かなり珍しい。
いや、もしかすると今までそう何度もはなかったかもしれない。
つらつらとそんなことを考えながら阿部は、三橋との電話を繋ぐ。
『あ……、あべ、くん』
「どうした?」
三橋の声が紡ぐ自分の名の4文字が、阿部はとても好きだ。
だが心地良さに浸ろうとして気が付いたことがある。
それは、音だ。
明らかに外の空間の音がする。
そういえば、三橋の息が荒い。
「三橋、お前、今どこにいる?」
『……あっ、』
「待て、切るな!!」
叫ぶと同時に、救急車のサイレンが家から少し離れた大通りから聞こえた。
携帯からも同じ音がする。
近くにいる、それは分かる。
まさか阿部の家まで来ているのか?
真冬の、こんなに冷えている夜なのに。
どこかに出かけて迷子にでもなったのか、それとも、それとも何か起きたのか。
「三橋!!」
名を呼んだ途端、回線は急に切られた。

電話はそれ以上繋がらず、舌打ちを空間に投げつける。
メールで「そこから動くな」とは送ったが、そもそも三橋だ、当てにはならない。
ダウンジャケットを掴んで阿部は部屋を飛び出し、
階段を駆け下り外に出た。
母親の呼び掛ける声が遠くに聞こえたが、それに構う余裕はなかった。




家の近所を場当たり的に探し回る。
すぐに大きな木がある近くの空き地で三橋を見つけた。
「三橋!!」
がしゃんと三橋の自転車が大きな音を立てて、その場に倒れる。
三橋は怯えた顔つきで、自転車には構わず阿部の前から駆けて逃げ出した。
追いかけて、阿部は夜の世界の中をただ駆ける。
走るということにおいては、三橋は野球部内でもかなり速いほうだ。
捕まえられるのか?
何でも受け止めるから、今この腕の中に三橋を捕まえたい。
夜の住宅街を駆ける。
駆ける、駆ける。
街灯に照らされる、吐く息は白い。
呼吸時に喉を通し体内に入り込む世界の切れ端の、その冷たさで胸が詰まる。
きっと三橋も同じ寒さを体感しているだろう。
あまり彼の肩を冷やしたくはない。
地の利はこちらにあることをいいことに、阿部は三橋を少しずつ追い詰める。
先の角を東に曲がらせて、そして、数十メートル先の細い四つ角の路地を南へ。
簡単に逃げられるとは思うなよ。

「!!……どう、して!!」
三橋が立ち止まって声を上げる。
その場所には三橋の自転車が倒れていた。
逃げていたはずなのに、阿部の誘導で最初の空き地に戻ってしまったことに、
三橋は少なからずショックを受けているようだった。
阿部は口の端を上げて笑う。
そして両腕を広げ、ゆっくりと三橋に近付いていく。
「来い!三橋!」
「……う、うええ」
三橋の顔が歪むのを阿部は見ている。
大粒の涙を零しながら、ふるふると首を振っている。
「来い!」
「阿部君、は、『来るな』って、言った」
あの時のことを思い出しているのだろうか。
三橋の世界は赤くはないだろうかと阿部は唐突に不安を抱える。
ぎり、と自分が食い縛った歯が鳴る音が聞こえる。
「あん時のお前も含めて、今、全部受け止めてやる!だから来い!!」
三橋は嗚咽を漏らしながら、それでも恐る恐る手を伸ばす。
今の三橋にとっては自分から手を伸ばすことは、とんでもなく勇気のいることだろう。
「好きです」と、「お付き合いしてください」と伸ばされた手の記憶が、
阿部の脳内を過ぎる。
けれど、彼が自分から勇気を出してもう一度動くことが、
この現状を打破するには大事なことだと思う。
まだ互いの距離は遠い。
阿部自身も焦れて来る。
駆け寄りたい衝動を抑え込みつつ、三橋を待つ。
このまま逃げられても仕方の無い状況ではあるが、
あの時三橋を護りたくて遠ざけてしまった自分への罰だろう。
あと2メートル、足がらしくもなく震える。
あと1メートル。
そして、次の三橋の歩で、阿部は腕を伸ばした。
「阿部君っ……!!」
指が触れ、次の瞬間に絡め合い、しっかりと繋がった手を引いて抱き合った。
触れたのは冷たい手だが、抱き合えば、身体は温かさを感じている。
「……あの、時」
三橋の零した小さな声は震えている。
寒さのせいなのか、それとも記憶が呼び覚まされて怯えているのか。
「うん」
返事をしつつ、三橋の背に回した腕に力を入れる。
涙の粒はいくつも赤い頬を伝い、転がっていく。
「ガラス、割れた、とき、」
「……うん」
「ほんとは、オレ、オレは、」
阿部は目を閉じた。
何だって受け止めるのだ。
「何でも言っていいんだ。吐き出しちまえ」
「オレは、阿部君の、傍に、それでも行きたかった」
「……」
「自分の、身体、ど、どんなに傷がついても、傍に、……」
「三橋」
「傍に!行きたかったんだ!」



蘇るのは、音とガラスの擦れる感触と、遅れてやってくるじわりとした痛痒さ。
視界に入る赤は筋になっていくつも流れる血の色だ。
あの時、「来るな」と言ったことは、やはり自分の中では間違ってはいないと今でも思う。
三橋を護りたかった。
阿部に向かって球を投げる、大切な指に少しの傷もつけたくはなかった。
それなのに自分が三橋を拒否したことが、
こんなにも彼の心に傷をつけることになろうとは思ってもみなかったのだ。
赤い世界はいつまで三橋の世界に残り続けるのだろうか。
その色が消えるまで、そして先の時間まで。
どれくらいかかってもいい、傍にいて、これからの時を一緒に紡いでいく。



「ありが、とう」
阿部は抱き締める腕に更に力を込めた。
顔を三橋の肩に埋める。
手を伸ばして、今まで言えなかったであろうあの時の本音を、
自分にぶつけてくれたのが何よりもうれしかった。
「……あべ、くん、いたい、よ」
消え入りそうになるほど小さな三橋の声が夜の四十万に落ちた。
内容に反し、とても嫌がっている声には聞こえない。
だから尚更きつく抱き締める。
今三橋の顔を見たら、きっと可愛い表情を見ることができるのだろう。
だが、迂闊に顔を上げたら泣いてしまいそうで、どうしても阿部は動けなかった。
「ありがとう、……三橋」
「あべ、くん」
「ん?」
「ぎゅって、いたい、よ……」

しばらく抱き合っていたが、音を立てて風が傍を通り抜け、三橋の体がぶるりと震えた。
真冬の夜に、いつまでも外にいては身体が冷えきってしまう。
「お前……晩飯は?ちゃんと食ったのか!?」
三橋は首をふるふると振っている。
「ま、まだ、今日、カレー、」
「まだなのか!」
まだ、という物言いに、腕を伸ばして阿部は三橋の身体を離す。
「えっ、やだ」
「なんだ?どうした?」
「まだ、ぎゅって、したいよ」
ぽろりと零れた三橋の声に、阿部の体内を熱が駆け巡った。
三橋の唇にちゅ、と口付ける。
舌先で上唇を撫でて離すと、白い頬が更に真っ赤になっていた。
「お、お前は……、ああ、もう!今日は帰さねえからな!」
「ええっ!?」
「!!くそっ、ともかく、家に行くぞ」
「家、どこ?……阿部君の?」
「その前に親に連絡入れろ!今日のメニューがカレーなら親も忙しいんだろうけど、
心配させてるかもしれないからな。そんで電話通じたら俺に替われ」
「あ、あの、えっと、」
「さっさと電話!!」
「!!」
三橋には構わずに、阿部は母親に、
今から三橋を連れて帰るが夕飯は余っているか、確認の電話をする。
そして三橋の母親と、今日は話し合うことがあるから阿部の家に泊めることと、
きっと玄関辺りに放り出しているだろう通学カバンをどうするかの話をした。
明日早朝にカバンは阿部の家まで持って来てくれるようで、そこは一安心だった。
時間のかかる宿題が出ていないことを祈る。
「パンツはそこのコンビニで買えばいいか、……三橋?」
三橋はまだ固まったままだ。
「自転車起こせよ、いくぞ!」
「……っ」
「どうした?」
「……手」
音をひとつ。
「て」と落としたきり、三橋は黙り込む。
でも言いたいことは阿部にも分かってしまった。
「ずっと繋いでるから、離さねえから」
言って目と目が合うと、三橋はにこ、と笑う。
最近はずっと見ていなかった、ふわりとした笑顔が目の前にあった。
ああもう、可愛すぎるだろうが!
叫びたくなるのを阿部は堪えて、一緒に倒したままの自転車に近付き起こす。
そうして2人は夜の沁みている世界を、
手を繋いだまま歩いていった。






狭間に横たわっていた夜は、
2人が歩く今、あまりにも静かで、
息遣いと鼓動が感覚を侵食している。

繋いだ手は暖かい。
過去と現在を繋いで、
互いのこれからを思う気持ちも繋いで、
また未来へ向かって歩き出すのだ。








ようやく、ここまで来ました。
感無量です。
この先、シリーズは緩やかに終わりへと向かっていきます。

もうシリーズを追ってくださっている方もいないとは思うのですが、
のんびりと書いていこうと思います。









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2016.2.19 up