向き合えはしなくても、今は。



その背に。









『背』
(2009年12月11日阿部お誕生日記念SS)






幼い頃に、夢を見ては泣いていた。
あれはまだ現実とそうでないものの境目がよく分からないほど幼かった、
今となっては微かに残っている阿部の記憶だった。
母親は泣いている阿部の背を撫でながら、何度も言った。
「おかあさんはどこにも行かないわ、タカ。ちゃんと傍にいるから」
見ていたのは独りぼっちになってしまう夢だったのだろうか。
現実には自分は独りではなく、たくさんの手に守られている。
幼い自分には現実の区切りはまだ曖昧で、世界の端は見えるはずもなく、
漠然と抱える未知なものへの不安の大きさは計り知れなかった。




三橋は、赤い色の夢を見るのかもしれない。
ついてしまった意識の傷のせいで、
何度もあのガラスが割れた時の記憶が再生されてしまうのかもしれない。












厚い雲の層で蓋をしたように冬の空は塞がれていて、
あまりの空の低さに気分も沈みがちになる。
風だけが強く吹いていて、肌に触れると体温を急に奪っていくようだ。
ガラスによる阿部の両手のケガは風呂で傷口が多少沁みるくらいで、
日常生活にはほとんど支障がないくらいにまでは回復していた。
小さなキズは残るかもしれないが、あまり気にしてはいなかった。
冬になり部活も基礎練が中心になっていくので、
それに合わせてしばらくの間、三橋と2人で組むことをなるべく避けてもらっている。
投球練習の捕手は田島に代わってもらっていた。
刺激は少ないほうがいいだろうと阿部は思い、
モモカン、シガポと部員全員が阿部の提案に同意した。
今日は委員会の話し合いがあって部活に行くのが遅れると、
阿部は花井に話してもいたし、9組の連中にはその旨を伝えてはいた。
三橋にはもちろん直接ではなかったがメールで。
それでも阿部の携帯電話はメールを受けていた。
デフォルトで設定されている秒数だったが、携帯電話は忠実にその時間震わせていた。
件名の「絆創膏」は何を意味するのかよくは分からない。
『すぐこい』
本文はたった4文字の、泉からのメールに阿部は血の気が引いた。
このタイミングは三橋に何かあったのだ。
あの事故の再現視を三橋が起こすのはこれで何度目だろうか。
少なくとも、阿部がいないときにはなかったように思う。




渡り廊下の途中で携帯電話を手にしたまま阿部が動けないでいると、
同じ委員をしているクラスメイトが声を掛けてきた。
「どした阿部、急がねーと始まっけど」
「ワリ、オレ、抜ける。後頼んでいいか?」
それ以上は言葉を重ねず、阿部は黙って頭を下げた。
こうしている時間すらも惜しく感じるが、頼みごとをする以上礼は尽くしたかった。
「……手、震えてる」
突然阿部はそう言われて狼狽する。
自分では手の震えなどまったく意識していなかった。
「そ、そうか?」
「明日、やきそばパン3つな」
ニヤリと笑って相手は指を3本立てている。
条件を出されたことで交渉は成立となり、阿部の気は些か軽くなる。
「ありがとう、助かる。同じの3つはどうかと思うがな」
「じゃ、いっこはあんドーナツにすっかなあ。じゃあな、先生には上手く言っとく」
ひらりと手を振りつつ場を離れていくクラスメイトに感謝しつつ、
阿部も踵を返して駆け出した。




すぐに阿部は泉に電話をする。
必ず三橋の近くにいるはずだった。
2回のコールですぐに相手は出た。
「何処にいる!」
『部室!』
たった3つの音だけで電話は向こうから切られてしまった。
歯痒い思いをしているのはきっと泉の方だろうとは思う。
部室だということは、着替えの最中に突然赤い色に意識が染まってしまったのだろうか。
一人の時や授業中ではなく、
事情を知っている野球部の連中が傍にいたことはラッキーだったのだ。
阿部は教室に寄りバッグを取って、昇降口で靴を履き校舎の外に出た。
音を立てて吹く風の冷たさに一瞬身を竦ませる。
部室ならば少なくとも肌を刺すようなこの風に晒されることはないだろう。
そのことに安堵しつつ阿部は更に駆けた。











部室のドアの前には泉と浜田がいた。
泉は既に練習着に着替えている。浜田もジャージ姿だ。
「すいません」と前を歩いていた上級生らしき人たち数人を掻き分けて、
2人の傍に寄った。
「三橋は!?」
「中、水谷付き」
「呼んでくれて助かった」
「待てよ」
勢いでドアを開けようとして阿部は泉に待ったをかけられる。
「んだよ」
泉は阿部をねめつけつつ、小さな声で言った。
「全部が不可抗力かもしんねーけど、
三橋にキズをつけたのは結局のところてめーだって自覚あんだよな」
「泉いくらなんでもそれは言いすぎ」
阿部が言葉を返す前に向かい合った2人の前に浜田の声と腕が割り込んでくる。
その腕を泉が払いのけていた。
「三橋を救うのも唯一てめーだけなんだからな。覚悟決めろよ」
「……分かった」
ずっと9組で三橋の守り役だった泉が、実際に三橋の異変に遭遇しても、
何もできずいつも阿部待ちな状況を納得できるはずもない。
そのくらいは阿部にも分かっていた。




泉と浜田を残し、阿部は重いドアを開ける。
夏の季節には湿気がこもり易くて不快なことも多い部室だったが、
風を凌げる分冬場は暖かさを感じることも多い。
「……三橋?」
電気のスイッチを入れると、隅で蹲っているまだ私服の三橋と、
彼の傍には水谷の姿があった。
「三橋!ほら阿部絆創膏が来たよ!もう大丈夫だよ!」
水谷の呼びかけに微かに頷く姿勢を見せるが、こちらを振り向くことはできないようだ。
「絆創膏ってのはなんなんだよ」
「阿部が三橋のキズを癒すからだよ」
「ああ、そういう意味かよ」
「オレここにいたほうがいい?」
「いんや、2人にしてくれ」
「了解、じゃあね三橋、またグラウンドで」
水谷は三橋の背をぽんぽんと軽く叩いて部室を出て行った。




「……ごめ、阿部、君。ごめん、なさい」
蹲ったままで三橋は言う。
体が震えているように見えるのは泣いているせいなのだろう。
人は心の根本的な処に「受け入れられたい」という思いを持っている。
ケガをしたあの日のように阿部の存在を受け入れられないことだけはないようだ。
信じてはいるけれどそれがいつも一番不安なのだ。
三橋が何度も見る赤い夢の中には魔物が住んでいる。
寄っていこうとする三橋を拒絶する血を流した魔物が見えるのかもしれない。
そしてその魔物はきっと阿部なのだ。
阿部はバッグを置いて三橋の傍、
だが三橋とは向かい合わず、ドアのほうを向いて腰を下ろし、膝を抱え込んだ。
何もできない、とは思いたくなかった。
「オレはここにいっから。ずっとお前の傍にいっから」
これまでも、これから先も、何度も何度も繰り返すだろう言葉を発する。
呪文のように。
三橋を回復できる唯一の呪文であるように。




「阿部、君」
「……なに」
「そのまま、動かない、で。そこにいて」
「ああ、落ち着くまでは、」
動く気配があって言いかけのまま言葉を失った。
「こっち、見ないで!」
三橋の声に阿部の体は強張ったように動けなくなる。
すぐに背に温かさを感じた。
同時にかかる重さに阿部にはそれが三橋の背の感触だと気がついた。
触れ合う背と背。
今の三橋の精一杯なのだと阿部には分かる。
阿部には三橋のその気持ちがうれしかった。
「オレ、頑張る、から」
「三橋」
「阿部君の顔、いつでも、ちゃんと、見れるように」
「ああ、オレも、お前の傍にいる」







以前みたいにいつでも向き合えはしなくとも、
背と背が触れ合ってさえいればそれだけで、
互いを信じることができる。
時間はやがて傷を癒していくだろう。
願わくはその過程で何にも無くすものがないように。



2人の空は、今は重く塞がってはいるけれども、
夏の初めに手をつないで一緒に見上げたような、
雲が朱に染まる綺麗な夕暮れの空を、
忘れることなくいつか再び見ることがあればいい。



その日が来るのを信じて今を精一杯に生きようと阿部は、
厚い雲が広がる空の、向こう側へ思いを馳せていた。

















阿部、大好きです!
お誕生日おめでとう!











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2009.12.11 up