いつもと変わらない表情のまま、


その掌は。









『掌』







どこまでも青い空と薄く流れゆく雲を廊下の窓に寄り、
その内側から浜田は腰を少しだけ屈めて見上げていた。




空の色は季節と共に日々移り変わっていくけれども、
世界というものはすべてのものを包み込むように大きくて。
空の下では人間はちっぽけな存在なのだと気付かされる。
何も変わらないその空は日常の背景になっていて、
夢の一部のように幸せだった昨日が過ぎても、
実際今日という日は、いつもと違うようでいて何も変わりはしないのだろう。




浜田が青の色を角膜に通したのはほんのひと時で、
昼休みも終わりに近付く喧騒の中、急ぎ足で駆けて渡り廊下に出た。
雲が流れているということは上空高くに風が吹いている。
冬の季節に北の方角からその風は地に近いところまで流れ着いて、
肌から体温を更に奪い取っていってしまう。




だから。
だからはやくさがさないと。




教室を離れた泉の肌が、
風に晒されて冷たくなってはいないだろうか。














自身の安眠のために、7組の阿部の元へとずっと昼休みに通っていた三橋だった。
だが昼休みに入ってすぐ阿部からの伝令としてやってきた水谷が、
しばらくは9組で三橋は昼休みを過ごす、と、そういう話をしていた。
阿部と三橋の間では既に何らかの形で話し合っていて了承されていたようで、
当人達がそれでいいのなら周囲が口を出すこともないと自分は思ったのだが、
三橋と田島の保護者である泉にとってはこの状況は納得できるものではなかったらしく、
水谷を引っ張って7組へと向かい教室を出て行ってしまった。
しばらくして9組に現れたのは水谷一人で、
教室の外から浜田にこっそり手招きをしていた。
そして「泉がどっかいっちゃった」としょんぼりと項垂れている。
その水谷は昼飯もまだらしく、時間をやけに気にしている様子だったので、
「泉はオレが探すから、心配すんな」と7組へ戻らせた。
そこまではいいのだが、三橋をどうしようと思う。
さすがに置いては出られないかな、とも思う。




思案しつつ教室の中に入ると、三橋はやはり眠れないらしく起きていた。
泣いてはいなかった。
穏やかな笑顔を湛えていて、浜田の姿に気がつくと唇の前で指を一本立てた。
視線を横にずらすと田島が眠っている。
この状況でもいつもと変わらない田島が少し羨ましくもあった。
三橋が立てていた指を斜め下に動かした。
そこで気がついた。
三橋の手を片方握って田島は眠っている。
田島が握る、その反対の手に持っている携帯電話を見せつつ、三橋は言った。
「ハマちゃん。泉君を、探して」
「……三橋」
「オレは、だいじょうぶ、だから。田島君が、いる。
そして、いつでも阿部君を、呼べる、から」
浜田はその言葉に大きく頷いて、教室を飛び出した。
それが5分ほど前の話で。




昼休みの時間はあとどれくらい残っていただろうかと、
携帯電話で時間を確認する。
浜田は駆けている。
喧騒の中。
いつもと変わらない、青い、青い空の下。






さがさないと。
どこにいる?












「泉君、みーつけた」
特別教室棟の3階隅にある美術教科の小さな倉庫部屋だった。
カギが壊れているので、美術部専用で使うことになったと聞いたのは、
いつだったかどこでだったか。
探し続けて切れそうになった息のことは悟らせるつもりはない。
「……何でここだと分かった」
多量のキャンバスや何やらに埋もれるようにして、部屋の奥に泉はいた。
膝を抱えて床に座り込んだまま、仏頂面で問いかけてくる。
浜田は自分も膝を折り、泉と目線の高さを合わせようとした。
「伊達に皆より1年長く西浦にいねーからさ」
「そんなの自慢にもなんねー」
いつもの強気の口調に浜田に笑みが漏れる。
何が可笑しいんだ、と突っ込みを入れられるのは毎度のお約束で。
変わりの無い日常を残念がるべきか、
安堵するべきかは今の浜田には答えが出せない。
「まあ何にしても早くに見つかってよかった」
「よくねーよ、1人にさせろよ。三橋置いて来たのかよオメーは」
「田島いたから。それにお前を探すのはオレでありたいんだ」
「……」
「もう絶対に1人では泣かせたくねーから」
「っ!今泣いてねーし!」
その顔を真っ赤にしながら、それでも反論してくる泉を可愛いと思う。
「阿部と話はしたんだろ?」
もうすぐ昼休みも終わる。
浜田は核心を突くべく、話を切り出した。




「分かってはいんだよ……」
泉からはそう言葉が返る。
「確かに昨日の騒ぎの後で三橋を7組に置いておくのは、
阿部にとっては辛いコトなんだろうって。
三橋をウザ過ぎるほど構いたがる阿部が敢えて手を離すのは、
それだけの事情と、あとオレ達への信頼があるんだな、って思ったら何にも言えなくなった」
「教室を飛び出した手前、すごすご戻ってもこれなかっただろうからなあ、」
ここにいる泉君は、と全部言い終わる前に突然近付いた泉に、
両頬を抓まれ横に思い切り引っ張られた。
「イテ!イテテテっ」
「ンなことを平気で言うオメーに会いたくなかったしな!」
言い捨てて泉は手を離してそっぽを向く。
沈黙が十数秒分だけ切り落とされて、2人の間に落ちてきた。
「……怖ぇよ」
「泉」
呟きを落とし、そのまま俯いた泉の表情が読めず、
浜田は1歩踏み込み更に距離を縮めていく。
「何が、怖い?」
「1日でそんなにも変わってしまうのが」
「お前は昨日のコトをなかったことにしたいのか」
浜田の言葉にその意図するところがすぐに分かったのだろう、
泉は弾かれるように顔を上げた。
暫し、互いに見つめ合う。
「チっ……!それとこれとは話がチゲーだろが!オレ達の話じゃねー!」
焦りと狼狽でぐだぐだになってきた泉の腕を掴んで抱き寄せる。
「ごめん、ごめんな、分かってっから。ちゃんと分かってっから。
……ほんとに、あんなに幸せそうな2人だったのにな」
自分達の変わりのない日常がこんなにも尊い。
一時遠ざかっていた野球にも、
プレイは出来ないが応援団としてまた係わることが出来ている。
泉はちゃんと自分の傍にいて、想い合うこの現状が幸せと呼べるのではないだろうか。
これ以上、何を望むのか。




しばらくして、泉の温もりに馴染んだところで昼休みが終了し、予鈴が鳴り響いた。
「ヤベ、戻るぞ浜田!」
身体を捩り、腕の中から泉は出ようとする。
「はいはい、ほら泉、お手!」
習慣になってしまっているようで、つい掌を差し出してしまった。
逃げられるのは毎度のことで、慣れきってしまっていた。
泉の舌打ちの音が聞こえてきて、それにも。
だからだろうか、
掌への感触への反応が鈍くなっていた。
ぺち、という小さな音にも。




触れ合う。
それは、ほんの一瞬だったのだが。
掌と掌。








「え、泉、今の何?泉どして?」
「ば、ばぁか!」
泉は立ち上がり、ドアに向かって駆け出した。
浜田を置いてきぼりにして去っていく。
「何にも変わってねーって、そんなこと勝手に思ってろよ!」
ドアのところからそう言葉を投げつけて部屋を出て、
廊下を曲がっていってそのまま泉の姿は見えなくなった。
「……くっそ、可愛すぎる……」
屈みこんだまま項垂れ、泉の触れた自分の掌を見つめて浜田はそう零す。




空は同じなのに、見上げると今日も青くて。
だが、同じような毎日でも変わっていくのだ、何かは。
















浜田は覚悟を決めている。
眠り姫を起こし、始めてしまったのだから。






先の時間で、もしこの恋が終わるようなことがあっても、
泉を腕の中から手放すことになったとしても、
それらのすべてを抗わずに黙って受け入れると。



その覚悟を。
















やっと、やっと念願のハマイズの「お手」です。
最初のお題からの伏線でした。
……何年越しだ(笑)











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2009.2.28 up