あんまりうれしそうに笑うので、


その頬に。









『頬』







風は冷たさを取り込んで肌を刺すように吹いていたが、
全天に広がる空はどこまでも青い色をしていた。
ただ夏のそれとは違い、薄い水晶を広げたように輝いていた。




朝、水谷は三橋を家まで迎えに行って、一緒に登校した。
泉たちが待ち受けていた9組まで三橋を送り届けて、
7組の教室まで辿り着くと、そこに栄口が待っていた。
サプライズなこの状況に緩む表情が抑えられない。
「水谷、おはよ」
胸の辺りまで手を挙げながら、栄口は笑顔で廊下をこちらに向かって歩いてくる。
頬の赤みが普段より強いような気がするのは、昨日の記憶があるからだろうか。
「お、おはよう」
だが栄口は挨拶を返した水谷の前では止まらず、
すれ違いざまに手に何かを渡して、そのまま「また後で」と去って行った。
「……あれ?」
遠ざかる栄口をぼんやりと見送って、掌に残されたそれに水谷は視線を移した。
ハート型に折られた水色の紙だった。
随分と前に……確か自分が栄口に渡したはずの。
「水谷、先生来んぞ。早く教室入れよ」
クラスメイトの声に慌てて教室に駆け込み、窓際前の自分の席まで横断した。
途中ちらりと阿部の方を見る。
両腕の包帯は見ていて痛々しいが、
いつもと変わらぬ様子でノートを広げ何かを書いている。
自分のイスに座り窓際後ろの席の花井を見ると、
疲れている様子はあったのだがこちらに向かって手を振ってくれた。
水谷にも、花井の気遣いは伝わってきた。
教室のガラスはいつの間にか元通りになっているのに、
いつもと同じようでいて、きっと何かが違う朝なのだろう。




担任教師の来る気配がまだなかったので、
指を開いて手の中の小さく折られた手紙を見た。
同じように折られた新しい手紙ではない。
角が幾分まろい感触になっていて、
ハート形を横断している自分が間違ってつけていた折り目もそのままで。
確かに水谷が春の終わりに栄口に渡したものだった。
冬を迎えたこの日まで捨てられていなかったという事実はうれしくもあるのだが、
何故今この手紙は戻ってきたのだろうか。
考えても水谷には答えを出せなかった。




忘れもしない、一緒に真昼の月を見た。




「……もういらないって返されるなんて、
なんかまたバカなこと、オレ、しちゃったかなあ」
呟きつつ、水谷は手紙を開いた。
中には鉛筆で書きなぐった自分の文がある。
たった2行の。
「しょうたいじょう」
「お昼休みに屋上にいらっしゃい」
そして。




「え、えええっ……?!」
思わず声が出てクラス中の注目を浴びてしまった。
両手を胸の前で振りつつ、えへらと笑顔でその場を治めようとしたところに、
教室のドアが開いて担任教師が入ってきた。
起立しながら鼓動が飛び跳ねている心臓を押さえつつ、
手紙は机の中に放り込んだ。
ないはずの3行目が、その手紙にはあったのだ。






「しょうたいじょう」




「お昼休みに屋上にいらっしゃい」









「いっしょに空を見ましょう」





細いペンで書かれた追加の3行目、それは確かに栄口の文字だった。












屋上を吹き抜ける風はさすがに12月の冷たさを持っていて、
ドアを開けた途端に水谷の身を竦ませる。
「うわ、やっぱ結構さみい……」
さすがにこの寒さでは屋上に来る生徒も少ないようだった。
今の時点ではまだ他には誰もいないようで。
栄口はまだだろうか。
それともどこかにいるのだろうか。
せめて風がなければ、太陽の暖かさを感じることができるのに。
重いドアを閉めて、息を整える。
弾む息はずっと駆けて来たからだった。
本当はお昼を早めに片付けてこの屋上で栄口を待ちたかった。
青空は澄んでキレイだけれど、こんな寒い中で待たせたくはなかった。
また給水タンクの陰でひとり泣いているんじゃないかと思うと、
心が捻れる思いがする。
「水谷、こっち!」
いつもとは違う方向から声がした。
陽のよく当たる南方の、高い屋上フェンスの傍に栄口はいて、
水谷に向かって手を振っていた。
勢いで転んでしまうのではないかと思うくらいに駆け出して、栄口の傍まで水谷は来た。
目を細めて栄口は笑っている。






水谷を見てあんまりうれしそうに笑うので、
笑顔の、赤みの強いその頬に触れるために手を伸ばした。






温かそうな色をしているのに、触れたら冷たくて、
驚きつつも水谷は今度は自分の両手でその頬を包むように優しく触れる。
「寒い中待たせちゃったからこんなに冷たいんだ、ごめんね」
辺りを見回して、誰もいないのを確認する。
栄口の頬を擦りつつ水谷は自分の頬を近づけた。
手を外して、触れあうのは互いの頬と頬。
思ったより柔らかい感触を感じつつ、空いた両手は栄口の背中にそっとまわした。
自分の体温で少しでも栄口が温かくなればいい。
触れる頬だけでなく、望むべくは心まで。




「遅くなって、ごめん」
「謝る必要なんてないよ。勝手に呼び出したのはこっちだし。
あの『しょうたいじょう』に気がつかなかったのかなあって、
ちょっとだけ思っちゃったけど、無理には呼び出したくなかったんだ。
水谷は7組抜けれたの?三橋は?」
「三橋、昼休みはしばらく9組に戻ることになったんだよ。
せっかく三橋のことまかされてんのに、オレあんま役に立ってないなあ」
「……そっか、戻ったんだ。安眠の、大切な場所だったと思うのに」
「うん、そだね」
7組の阿部の前の席は、ずっと三橋の安眠の場所だった。
ずっと昼休みに7組へ来ていた三橋。
しばらく9組へ戻すことを提案したのは阿部だった。
「呼ばれればいつでもすぐに飛んで行くから」と、
そう真顔で言われてしまえば周囲の誰も反対はできなかった。
当の三橋もそれを了承してしまったので。
7組と9組を往復する伝令になって水谷は走り回り、
気がついたら屋上へ来るのがこんなに遅くなってしまった。




「綺麗な空。でも雲がどんどん流れていくよね、雨が近いのかなあ」
そう言った栄口は首を捻って空を見上げる。
地上を吹き抜けた風は、そのまま上空の雲のある辺りまでも届いているのだろうか。
どちらからともなく自然に体を離して、2人はフェンスに凭れて顔を上げ雲を追う。
栄口の指が水谷の手にそっと絡められる。
手を繋いで、空を見た。







昨日1日の出来事は大きな「きっかけ」だったと思う。
阿部と三橋はあんなに好きあって幸せだったのに、
2人の関係は様変わりしてしまったようで、水谷はその事実に悲しくなる。
反対に自分たちは、昨日のことがあったからこそ、
心にあった垣根を越えてここまで近付くことができたのだ。
これからどうなるのだろう、と水谷は思う。。
お互いがお互いを「好き」だということは分かったのだが……それからは?
1からお付き合いを始めるには余りにも近くにいすぎているようで。
水谷の笑顔は確かに栄口を幸せにするのかもしれないが、
それだけじゃダメなような気がしている。




「どこへ向かっているんだろうなあ」
「ああ、そうだね。もしかすると地球の涯かなあ」
呟いた言葉には穏やかな声で返事があった。
栄口は雲の話だと思ったのだろう。
あの雲たちの行く先は、
そして自分たちはこれからどこへ向かっていくんだろう。
そう思いつつ水谷は流れる雲のその先を目で追っていた。
他の誰にも答えが出せない問いだった。
向かう先がどこなのか、水谷にはまだ何も見えてはいなかった。















たとえ手探り状態でも、人生の道を日々歩みながら、
どこかに落ちているだろう答えを見つけ出すしかないのだろうか。







栄口と共に、
一歩ずつ、道に足跡をつけながら。
















ハートの手紙、
2年半経ってようやく再登場となりました。











back

2008.9.30 up