もう過去の何処にも戻れない。
進むしか、ないのだ。







『この長い夜を越えたら』










目が覚めると、視界の端には満月があった。
明り取りの窓の、その窓越しに。



何故ここに居るんだろうと、オレ、泉はまずそれを思う。
ここは浜田の部屋だった。



意識は得体の知れない何かに喰われてしまっているようだった。
かけらだけが記憶の隅に辛うじて残っていて、慌てて捜索を試みる。
部屋の中は冷えているのに汗をかいている。
額に乗せた手の甲に濡れた感触がある。
ベッドに投げ出された体は怠く、動くのが億劫になっている。
浜田は何処にいるんだ?
もしかするとこれは、自分の家で自分が見ている夢なのだろうか。
独りきりで見ている、たった独りの夢なのだろうか。



「泉」
不意に聞こえた浜田の声に呼ばれた自分の名に、驚きと、すぐにうれしさを感じた。
その声を咀嚼して身体の隅々までに染み透らせる。
視線はまだ月から逸らせない。
「目ェ覚めた?何か食べる?チキンポトフ作ったんだけど。先に風呂がいっかな」
どうやらベッドの横に浜田は立っているようだ。思ったより近い、距離。
「何でオレはここにいんの」
具合良くなくて保健室で寝ていて、浜田と一緒に学校を出たのは覚えている。
ふらふらで自転車こいで浜田の家まで来て……そして?
見上げたはずのあの朱に染められた空は、いつの間に夜空に取って代わられたのだろうか。
「お前、うちついてそのまま倒れたんだよ。すげェ心配したんだけど……」
「風呂、入る。メシも食う」
言いつつ、気怠い身体を起こして浜田を見上げた。
投げたオレの言葉に苦笑しつつ、手を伸ばし、頭を撫でてきた。
「お前の親には今日うちに泊めるって電話入れたんだけど……よかったんだよな?」
黙ってオレは頷くだけだった。
浜田がそう訊いてくるのは、オレ達の関係に大きな変化があったからだ。
家には行かない。電話もメールも必要最小限。
「好きだ」と告白して、何も言葉を返してもらえなかったあの日から。





何にも変わらないのに。
頭を撫でていく大きな浜田の手も、オレの前にあるその笑顔も。



ああ、やっぱりオレは浜田が好きで。
いっそこの想いを無くしてしまったら、どれだけ楽になるだろうか。
ちりちりとした痛みはずっと消えないままだった。
だがどんなに辛くても、2人の関係を自分から断ち切ることは出来なかった。
オレは浜田の傍にいたかった。
浜田がそれを許してくれるならば……このままずっと。



何でなんだよ、浜田、お前……何でそんな優しいんだ。
見捨ててくれていいのに。
オレなんか、すっぱり切ってくれちゃっていいのに。




暖かいお湯が満ちる湯船に身体を沈めて、大きく大きく息を吐く。
このまま時を過ごせば、何事も無く幼馴染の関係に戻れるのだろうか。
抱えている思いは、いつか本当に風化してしまうのだろうか。
優しすぎる浜田に甘えたままで。
そんな風に甘えてしまうのは、心苦しかった。



身体は風呂と胃に落ちる美味いチキンポトフに暖められはしたが
心はなかなか解すことが難しい。
重いものを抱えたまま、また笑えなくなっていくようだ。
久しぶりの浜田の家は心地良く。
持て余した自分の気持ちを見ないで、痛さにも慣れていって
毎日をただ過ごしていってしまうのだろうか。
浜田に彼女が出来るまで。それまででも。
……そんな自分を自分が一番嫌いになってしまいそうだ。
そうオレは思った。







時計を見ると夜中になっていて、日付が変わろうとしている。。
明日の朝練は無くなっていたので、その分はのんびり出来そうだ。
浜田の部屋でベッドを背凭れにしつつ、明り取りの窓を見上げる。
もう月の姿は見えなかった。
白道を渡って、より西方の空へと移動していっているのだろう。
夕の刻に東の空から上がり、夜を渡っていく満月。
地平に落ちて太陽と交代し、また朝が来る。
だがオレの夜は簡単には明けないような気がしている。
長い夜の中に居た。
もうずっと居るような気がしていた。
膝を抱えて蹲った。




浜田が近づいてくる気配がある。でも顔は上げない。
「泉、ほら、大好きなアップルティー」
差し出されたマグカップが見える。オレのお気に入りの。
何でそんなにまで、優しいのか……。
オレは浜田の、見えていた右の手首を掴んだ。
マグカップだけは、もう片方の手で取ってベッドサイドの小さなテーブルの上に置いた。
「……泉?」
その後空いた手を浜田の腕に滑らせる。
オレ達は幼馴染だけれど、いつまでもあの頃のままではいられない。
何も変化のない人生なんて有り得ない。
どれだけ望んでも。
どれだけ、望んでも。
変わってしまうものはある。







浜田のこの手は、もう今は野球をしていない。







腕、そして肘まで手を滑らせて、擦る。
鼻の奥にツンとくるものがあって、熱が顔全体に広がった。
見えている、その全体の境界線が怪しくなり歪んでいく。
「いず、み」
今オレはぼろぼろに泣いているんだろう。
泣いたって同じだ。今更だ。どうにもならない。
そんなことは分かっていた。分かっていても止められなかった。
もう戻らない浜田の肘を擦る、ただ擦る。
「う、えっ…えっ」
オレは子どもみたいに泣きじゃくった。



しばらく黙っていた浜田だったが、腰を下ろしてオレの目の前に座る。
ティッシュがいくつも取り出される音がして、その現物が顔に押し当てられた。
「泣くなよ」
言われても泣いてんのはすぐには止められない。
息が苦しくなって、酸素を更に求めて小さく喘いだ。
急にティッシュの感触が無くなったと思うと、
右の頬に浜田の持つ大きな掌が触れ、すぐに唇を塞がれてしまった。
口付けをされたのだと気が付いて、身を捩って逃げようとした。
「……や、浜田。やだ」
「オレの肘、擦りながらなんか泣くなよ。
そんなんされたら、もう気持ち抑えらんねぇ」
「何…オメー……」
「好きだ」
耳に入った言葉をオレは一瞬で理解し、頭に血が上る。
同情なんかうれしくない。
本気じゃないんなら、辛いだけだ。
「…っ、ざけんな!」
足を上げて、浜田の腹に思いっきり蹴りを入れた。
浜田は背中から後ろにひっくり返った。
「痛…ってぇ」
「今更…それを言うのか。どの面下げて言ってんだよ!」
立ち上がって怒鳴った。流れる涙は止まらない。
怒鳴るオレに怯みもせず、浜田は起き上がってこちらに近づく。
肩に手をかけたかと思うと体重をかけてベッドにオレを押し倒した。
負けない。数センチの距離にある顔から目を逸らさずに真っ直ぐ睨めつけた。
「言い訳があんなら言ってみろよ。聞いてやっから」
告白したあの時に答えをくれなかった理由がどうしても知りたかった。
先程発した「好きだ」という言葉をどうか信じさせて欲しかった。
浜田も至極硬い表情でオレを見つめてくる。
「泉」
「あんだよ」
「……お前さ、お前」
「うん」
「お前、オレのこと、何で好きになったんだろうって思ってただろ?
幼馴染のままでいたかったと思ってなかったか?」
浜田の言葉にオレは答えを返すことが出来なかった。
受け止めるだけで精一杯で。
発すべき自分の言葉のすべてを失くしていた。
忘れていた。
浜田はオレのことは何でもお見通しだったのだ。





「お前はオレへの気持ちに戸惑っているように見えたんだ。
その戸惑いのまま、告白してきたように見えた。違うか?」
何も違わなかった。認めたくはないけど、思い返したらそうだった。
「だから、ただの幼馴染に戻してやったほうが
泉にとってはそのほうがいいんじゃないかと思ってしまったんだ。
でも好きじゃないとは絶対に言いたくなかった。
嘘は言いたくない。そんなのオレの気持ちじゃねーし」
唇には再度熱が下りてきた。
『本気で好きじゃないんならキスなんかすんな』と
オレが投げつけた言葉をきっと浜田は忘れてはいないだろう。
信じてもいいのか?本当にいいのか?
「それなのにな……。オレが……どうしようもなくなってきた。
お前泣くし。んなの、見ちゃうとたまんねぇよ」
「浜田……」
掠れて震えた声で、名前を呼んだ。
それがオレの精一杯だった。
「泉、お前覚悟決めろ」
「……!」
「もうきっと何処にも戻れねぇから。
ただの幼馴染にも先輩後輩にも絶対に戻れねぇから」





戻れないなら。
もう何処にも戻れないなら、進むしかないんじゃないか。





「好き」という言葉をそんなに簡単に何度も使っていいのか分からない。
だからもう使わない。
使わない代わりに、見つめて見つめて微笑んだ。
呆けたような表情を浜田はしたが、軽く笑って、
その後にすごく真剣な面持ちになっていた。
長い指が何度も頬を触れていく。
「……泉、悪ぃ。もう我慢できそうにない」
「え?」
今度は深く口付けられる。
不器用ながらもオレは求めに応じる。
抱き締められて息は苦しかったが、それでも構わない。
浜田が好きだ。
春の時間からずっと好きだった。
それが、唯一の真実だった。







オレ達はこの先、何処へ向かって進んでいくんだろう。







少しずつ自分の身体を降りてきて触れていく浜田の
熱い吐息を感じながら意識はぼうっとしていって、
オレは浮遊感に感覚のすべてを支配されようとしていた。



「いずみ、いずみいずみ」
「は…まだ」
浜田の呼ぶ自分の名のその音があちこちに絡み付いていく。
狂おしいほどの恋情となって、体中を駆け巡っていく。



















この長い夜を越えたら、
その先にはどんな世界が自分を待っているのだろうと思う。











忘れられない、夜となった。














*

やっとここまで書きました。
これから先もまだ物語は続いていきますが
私の中で、この話で大きなひとつの区切りとなっています。
ここまで頑張れたのも
ずっとお付き合いくださってる皆さんのおかげです。
ありがとうございました。




BGM : ACIDMAN 『toward』
歌詞 ⇒ ttp://kashinavi.com/song_view.html?20011
(歌詞はそんな長くないのですが、楽曲は10分を軽く越しちゃいます。笑)






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2007.8.12 up