まるで何事もなかったかのように
空は暮れて行き、やがて夜が来るだろう。






日常が尊かった。


冬に向かう透き通るような空の下、
何も考えず野球をただやれる日常が
思い返せば尊かった。








『今はまだそれほどに遠くて』










夜の帳はあまりにも早く下りてきてしまっていた。
迫る夕闇に追いかけられながら、
それでもまだ光を求めて西方の空に花井は視線を向ける。
目の前の部室棟を見上げて、電気のついていない野球部室を窓を見て確認し、
今日いくつめだろうか分からないほどの溜息をついた。
やはり田島は帰ってしまったのだろうか。
掴もうとする手をすり抜けて。




2人で話すつもりで携帯メールで田島を放課後部室に呼び出したのだが、
部室に行く前に学年主任に掴まったらしく、
校長室で田島と顔を合わせた時には、さすがに頭を抱えたくなってしまった。
顔を揃えていた校長、教頭、教務の三役と学年主任、9組の担任まで居て、
今日の事件の当事者達は既に帰宅させられて不在だったというのに、
何故ここで自分だけではなく、田島までもが呼び出されなければならなかったのか。
ああでも、逆に考えれば田島だけではなくてよかったと考えるべきなのか。
事情を聞かれた、と言えば確かにそれだけなのだが。
心配していた田島の言動はとても落ち着いていて。
落ち着いている……というよりはかなり沈んでいるように花井には見えていた。
校長室を出た後にシガポがいる数学準備室に寄っていくから
部室で待っててくれと田島に告げたら、静かに頷いていた。
病院に行った阿部たちは学校が加入している保険が適用されるようで、
その書類用に今回の件の概略を文章にして提出してほしいと学校側から言われたのだ。
それを今日のうちに済ませたかったのだが、数学準備室にはモモカンもいて、
いろいろ明日の打ち合わせまでしていたら、部室に戻るのがかなり遅くなってしまった。




昼間は澄み切った青空だった。
朱に染まる夕暮れの空を見上げる余裕もないままに、世界に闇は満ちてくる。
焦燥感を抱え、このまま帰るのかと花井は再び溜息をつく。
胸の中には泥が詰まっているように重い。
戸締りだけは確認しようと、ほぼ自分専用となってしまった合鍵を手に持ち、
部室の前に立つ。
そこで、ドアが数センチ開いているのに気が付いた。
……まさか、と花井は、ドアを開け中に踏み込んだ。人の気配がある。
電気のスイッチを押すと、部室の奥に田島が一人膝を抱えて座り込んでいた。




靴を脱いで上がりバッグを放り出し、花井は田島のすぐ傍に立った。
「電気くらい付けろよ。……帰ったんじゃなかったのか」
「待ってろって言ったのは花井じゃん」
こちらを見ないで、田島は窓の外に視線を向けてそう言った。
ずっと空が暮れるのを見続けていたのだろうか。
お互い同じ空を見ていたのだろうか。
「遅くなって……ごめんな。メール、すればよかったな」
待っていてくれたのがうれしかった。
自分の気の回らなさには、いい加減うんざりもしていたが。
田島は俯いて、ぼそりと呟いた。
「いいんだ、それは」
返事は軽く放り投げて、膝を抱え、田島は更に蹲った。
触れたくなって、手を伸ばしかけて……だが押し留まった。
田島の幼さが残る横顔をただ見つめて。
どこまで自分を抑え切れるのかが分からない。
だが、気が付いてしまっていた。
だからこそ。だからこそ、抑えて。




「オレ、分かんなかった」
田島のくぐもった小さな声が届く。
急に手を引かれて、花井は床に膝をついた。
顔を上げた田島との距離はほんの数センチ。そばかすは目の前に。
視線は絡ませあって、簡単に逸らすことはもう出来なかった。
「田島……」
「もしかすっと死んでしまうかもしんないって、そんなの分かんなかったんだ」









学校側が何故あのように過敏な反応をしているのか、
最初はその理由が花井にも分からなかった。
だが校長室で、数ヶ月前に似たような事例がどこかの中学校であって
死亡事故になってしまった、という話を聞いた。
数ヶ月前……あまりにも最近で、話を聞くだけのこちらも肝が冷える。
横にいた田島もさすがに言葉を失くしていた。
学校で鬼ごっごなど田島たちもよくやっている。
ガラスが割れることなんて、それも学校の中でよくあることだ。
人が死ぬことに普通は直接思考が繋がっていかなくて当たり前だ。
もし友達に目の前で死なれたら、それはきっと一生もののトラウマになる可能性がある。
田島のクラスメイトが突っ込んできて割れた7組の廊下側のガラス。
廊下側の席だった阿部に降ってきた破片、両手から流れていた血の筋。
鮮明に記憶には残っていて、しばらくは消えてくれそうにもなかった。
直接目撃はしなかったが、すぐにあの場に駆けつけた田島もそうかもしれない。
もしも自分だったら……とでも思ったのだろうか。





「田島」
「……」
「……怖かったな」
抑えたはずの気持ちはそれでも溢れ出て、田島の頬に軽く指を滑らせた。
押し留める。再度。
息を詰めて田島の頭をよしよしと撫でた。
そして離した、掌と、指。
離しても、逃げない。
何故あんなにも掴まえたいと思っていたのだろう。
田島はここに、花井の前にちゃんといるのに。
何処にも行ってはしまわないのに。
田島の瞳はまだ射抜かれてしまうように真っ直ぐにこちらを捉えていた。
「ありがと」
零された言葉に、花井はやっと笑むことができた。




田島が好きだ。
いつしか野球だけではなく、それ以外でも田島を追いかけるようになっていた。
浜田の言葉がきっかけとなって気付いてしまった自分の気持ちと、
花井はどう向き合おうかとずっと考えていた。
考えて考えて、決して逃げないでそのまま引き寄せて受け入れることにした。
今までは自分の中で田島に対する感情を持て余していて、それを本人にぶつけてしまっていた。
掴まえて傍に置きたかった。ずっと触れていたかった。
周りを見回す余裕も無くなっていて、
いつしか田島の花井に対する態度が変わってしまっていた。
理由は分からない。自分のせいじゃないかとは思うのだが。
以前の田島だったら、部室に花井が顔を出すと
「はーないっ」と駆け寄ってきて纏わり付いていたのが常だった。
それが無くなって、寂しさはかなり増していた。
自分の気持ちには「田島が好きだから」という理由がついて、
花井をかなり楽にしていた。
その事実を認めてすべてを受け入れることも容易になったのだ。




花井にはあまりにも周りが見えていなかった。
気が付いたら、野球部の皆の歯車がどこかおかしくなっていた。
そんな中での今日の出来事だった。
主将として、この先野球部をどう引っ張っていけばいいのか。
まだ混沌としていて、どうすればいいのか分からない。
せめて状況把握くらいはしたいと思って、動き出した矢先の今日で。
浜田から喧騒の最中に送られてきたメールには
「田島を追い詰めるなよ」とあり、花井を辛うじて冷静にさせていた。




田島が好きだ。
だからこそ、自分の気持ちは抑えて。
抑えはするけれども、受け入れて大事にしていこうと、そう思う。




今ここにこうして、自分の前に田島はいてくれている、
それだけでもう十分なのではないか。
今までの自分の衝動をちゃんと受け止めてくれた、それだけで。




「花井……これからどうすんだ?何かあんの?」
田島に声を掛けられて、我に返る。
何かまたぐるぐると思考を回していたようだ。
「保険の書類用に一応の経過を文章にしなくちゃいけないんだ。
田島、手伝ってくれるか?」
「いーよ」
カバンを取りに花井はドアのところまで戻る。
筆記用具とレポート用紙を取り出して、また田島の傍に腰を下ろした。
「阿部も両手をケガしてっしな、オレ達で一通り書いて後で確認を取るほうが
確かにいいだろうな。今日はまだいろいろあいつらも大変だろうし」
「大変って、何が?」
「だから…、今頃はお前のクラスのヤツは親と一緒に、
阿部んトコに頭下げに行ってんじゃないかって、そういうことだよ」
「……なるほど」
「お前は遅くなるって家に連絡しなくていいのか?
もうきっと阿部の親からメールで全部の親に情報まわってっぞ」
「ああ、だからか、さっき親から電話あったの」
「もうあったのか……」
花井は先手を取って、早くに親には連絡をとっていた。
後でいろいろとあの親に突っ込まれるのは真っ平だったのだ。
「三橋は、大丈夫かな」
言葉を落とした田島の表情はまだ晴れない。
そういえば田島にとって三橋は弟みたいなもんだったなと思い至った。
「……栄口が水谷と一緒に三橋の家まで行ってるって連絡をもらった。
だから大丈夫だ」
「そっか……なら、いっか」
「明日っからは……三橋を頼んだぞ」
「おう」
「オレ達は今、オレ達が出来ることを少しでもやんねぇとな」





一通り経過をレポート用紙に纏め上げた頃には、随分と夜も更けていた。
纏めたやつを提出し、職員室から戻って来ると
部室棟から出たところで田島は空を眺めていた。
近づくと、笑顔で花井を振り返る。
「お疲れ、花井」
愛しかった。
田島の存在がとても愛しかった。
自分が挫けてしまわない為にも、もう一度だけ触れたいと思う。
「田島」
「……」
「お手」
顔を赤らめながらも花井が掌を見せて上げると、
田島は小さく「わんっ」と鳴いて手を合わせてきた。
冬を迎えようとしているこの季節、外の空気は冷たく、
田島の手の温もりが花井に伝わって勇気が湧いてくるのが分かる。
手を合わせたまま、花井は田島の名を再度呼んだ。
「ん?」
「もしオレが…お前に逢いたいって言ったら、お前は逢ってくれるか?」
「……?毎日会ってんじゃん、学校で」
「いやそうだけど、……上手く、言えないんだが」
「いいよ」
「……」
「夜中でも、どんな遠くにいても、
オレは花井が会いたいってオレを呼んだら会いにいくよ!ゲンミツに!」
「おう」
返事をした途端、田島の携帯が派手な音を立てて鳴った。
「やべー!また親からだ!じゃな、花井!また明日!」
慌てた様子で、田島は手を振り去っていく。
「ああ、また明日な」
田島を暫し見送って、それからやっと夜空を見上げた。
微かに流れる雲の合間に、綺麗な満月といくつもの星が光っていた。




人生、先で何が起こるかは誰にもわからない。
普通に高校生活を送っていて、野球が出来て当たり前の日常は
尊いものだと気が付いてしまった。
1日1日を大事に出来ればと思う。
もう以前の、花井にいつも纏わり付いていた田島は戻ってこないだろう。
それでもまだ自分の傍に居る。
そこに幸せを感じなければダメだとも思う。
たとえ先で田島ともっと離れることになったとしても、
決して悔いは残さないように生きていたい。
好きでいることで、痛さを抱えたままでも。
気持ちをたぶん伝えることはできないだろう。
まだ今は。
自分の中に勇気は足りないままで。
だからこそ、今は。






2人の距離は、今はまだそれほどに遠くて、遠いけれど
愛しい存在を決して見失わないように在りたかった。













*

日常の尊さは
それを一度無くしてみないと分からないのかもしれない。




BGM : ACIDMAN 『toward』







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2007.8.5 up