優しく抱き締めたかった。
手に力は入れられないけれど。
大丈夫だよと。
大好きだよと囁いて。




だが望んだそれは、叶わなかった。








『他にどこにも言葉を持たない』










『家まで会いに来いよ。会いたいよ』
包帯を巻いた両腕の皮膚の内側にちりちりと湧いてくる微かな痛みを感じつつ、
ぽろりと零した言葉は、オレ、阿部にとって何も飾らない本音だったと思う。
携帯電話の向こうから聞こえた三橋の声は涙声だったけれど、
オレの名を呼んで、しっかりと肯定の返事を返してきた。
もう一度水谷と話をし、三橋を連れて来てもらうように頼んだ。



窓の外を見上げると、冴えた空気に晒されていた青い空があった。
もう冬だといってもいいくらいの肌を刺す風と
大気の中から溶け出ている光から抽出されている青い色。
フローリングの部屋の隅に足を抱えて座り込んで空を見ていた。
すぐにこの青い色は薄くなり、やがて緑が混じって夕暮れの空になっていく。




もうすぐ三橋がここにやってくる。




また、泣かせてしまった。
想いがあるからこそ、結果的にあのように泣かせてしまうことになってしまった。
傷の痛さより、心にある見えない傷の方が何倍も痛い。
笑顔が見たかった。
時折見ることができるようになった、ふわりとした笑顔をオレは見たかった。
抱き締めて、「大丈夫だよ」と伝えたかった。
そんな風に優しく三橋に触れたかった。
だから会いたいと、思った。



玄関で出迎えるなんて、恥ずかしい真似はできなくて
水谷には、玄関のカギは開けてるから直接部屋まで来いと言ってある。
母親はついさっき買い物に出かけた。
大体いつも母親の買い物は長くて、こんな時は好都合かもしれない。






『今、ついたよ〜♪』
嘆息しつつも、水谷のマメなメールにある意味感心してしまう。
文章の真似もオレには一生出来ないかもしれない。
玄関のドアを開く音が聞こえる。
耳を澄ます。
近づく、音。
自分の心臓の音が聞こえてくるようで。
全身の細胞が三橋に会いたいと合唱してそうだ。
だが平静を装って、オレはここに居た。
ドアを開けた位置からすぐ見えるように、部屋の奥に腰を下ろして座り込んでいる。
そうやって、もうずっと奥の窓越しに空を見ていた。
ドアが開いた。







次の瞬間に聞こえたのは
小さくではあったが、三橋の悲鳴だった。







ドアを開けたのは水谷で、その奥に三橋が見えた。
耳を塞いで小さく蹲っていて、何事かと立ち上がる。
「ど、どうしたの?」
水谷が慌てて三橋の傍に寄った。
「……あ…かい」
「赤い?何?みはしー?」
水谷の問いかけにも答えは返らない。
三橋は何を言っているのだろう。オレも近づいた。
「三橋!」
オレの掛けた声に三橋は顔を上げる。潤んだ瞳はそのままで更に震えだした。
「オラ、手ェ出せ!」
何の反射か、自分が言葉に出したのはお手の合図で。
けれど掌を差し出したオレに一瞬視線を向けただけで、首を振り、
そのまま顔を隠して更に小さくなってしまった。
お手すらも、出来ない。
腕を伸ばし触れようとすると、三橋は身を捩って後退さる。
オレを決して見ようとはせずに。
その事実にオレはかなりのショックを受けていた。
「水谷、三橋に何があったんだ」
「わ、分かんないよっ。だって、ドア開けるまでは普通だったんだよ!!」
「じゃあ、なんで……」
意識がぐらりと揺れ始めた。自分の部屋なのに違う場所にいるようだ。
「……赤いって、『血』…なのかな?」
水谷が呟いたその言葉に、
フラッシュバックかもしれないと、咄嗟に思った。




浅い傷ではあったが割れて降ってきたガラスの破片はやはり鋭利で
腕には小さな傷がいくつもできて、そこから血が筋を引いて流れ出していた。
三橋がオレの名を叫ぶように呼んだ。今日の昼間。
その時に、手を伸ばせばよかったのだろうか。
無理やりにでも駆け寄れば良かったのだろうか。
三橋が近づこうとしたのを、あんな風に拒んでしまった。
離れないと、傍を離れないと約束したのに。
オレの名を呼んであんなに泣いていたのに。
今更過ぎたことを考えてもどうしようもないのだが、ぐるぐると思考は回る。
ただ分かることは、三橋はオレの姿を見た途端に、
ケガして腕が血だらけのオレを、
あの昼間の情景を思い出したのではないかということ。




それは1度きりなのか。
もしかしなくても、これからもずっとそうなのか。




体の芯がゆっくりと冷えていくような気がした。
立ちくらみのように、意識は今でも揺らいでいる。
しっかりしろ、自分。しっかりしろ。






「大丈夫だよ、大丈夫だから」
「水谷」
大丈夫だよと声を掛けつつ、三橋の背を静かに撫でる水谷に声を掛けた。
「しばらく……2人きりにしてくれないか」
水谷は顔を上げ、しばらくこちらをじっと見つめてきた。
立ち上がって、息を吐いていた。
「分かった。オレ、外出てるからさ、なんかあったら携帯で呼んで」
「おう」





水谷はこの場を離れていく。
オレは蹲っている三橋を抱き締めたい衝動に駆られたが
逆効果になるような気がして、それを押し留めた。
部屋のドアは開けたまま、先程まで座っていた場所に戻る。
膝を抱えて、座り込む。
こんなに近い場所にいるのに、触れ合うことができない。
その悔しさにオレは唇を噛んだ。
「三橋」
やっとの思いで、声を掛ける。
「……」
「……大丈夫か」
「だい、じょうぶ、だよ」
掠れた涙声が耳に届く。
「でもどうして、こんなに、赤く、なるんだろう」
「三橋っ!」
「こわい、よ。阿部君が、見れない、よ」
三橋の嗚咽は止まらない。その隙間から言葉が零れ落ちていく。
その言葉の持つ意味に気付き、オレは呆然として動けなかった。



もしかしなくても、これからもずっとそうなのか。



オレ達は、西浦高校野球部の仲間で、バッテリーで、
しかも恋人同士でもあるのに。
見つめ合うことも触れ合うことも出来なくなってしまうのか。
息が苦しくなる。
また思考が回り始めた時に、三橋が言った。その声が届いた。
「阿部君っ、それでも、オレは、すき、だ」
「……っ」
「すきだ、よ」
「分かってる。三橋、オレはちゃんと分かってっから!」
「……すき」
「オレも好きだ、三橋。……だから、」
そこまでを言って、息を吐く。
まずは吐くことで、いつもの呼吸を取り戻したかった。
大きく、息を吐きながらオレは言った。
「だから、今日は帰れ」
三橋は体を大きく震わせて、でも何も言わなかった。
このままでいたら、お互い傷を深くするばかりだ。
それに、そろそろうちの母親も戻ってくることだろう。
下手な詮索はされたくない。
野球部に繋がりが深い親たちまでも巻き込みたくない。
オレは携帯を開いて、リダイヤルボタンを押した。




離れて座り込んでいたオレたちを見て、水谷は顔を微かではあったが顰めていた。
「水谷。……今日はこのまま三橋を連れて帰れ」
「阿部っ!!」
水谷は声を荒げてオレの名を呼び、その後泣きそうな表情をしていた。
「それでいいの……、ほんとにいいの?」
「今日はダメでも、明日はまた違うかもしんねぇ。
まずオレがこいつを信じてやれなくてどうする。……だから、今は帰れ」
「阿部…」
「三橋を、連れて帰ってくれ。今日は、落ち着かせてやってくれ」
「……わ、分かったよ」
水谷の声は微かに震えている。
「水谷……お前は、泣くなよ」
「阿部なら分かってると思うけどね、そんなのは、たぶん無理だよ」
「……」
「ただ、こんな状況なのにうれしいよ」
「なにが」
「信頼してくれてありがと。三橋はちゃんと家まで送り届けるから」
『阿部はオレを見くびってるだろ』と水谷に以前言われたことを不意に思い出した。
あれはまだ夏の暑い日のことだった。
今日1日でどれだけのことを仲間たちに助けられたか分からない。
オレが今ここに立っているのに、彼らがどれだけの大きな力になっているのか。
人は独りでは生きていけないのだ。そう実感できる。




三橋は家に帰って、きっと独りで泣くのだろう。
水谷だって、三橋を送っていった後に何処かで泣くのかもしれない。
どちらも独りきりで泣かせたくはなかった。
誰か傍にいてくれたらいいのにと、回ってない頭でそれだけを思った。
「まったく…、泣き虫ばっかり揃いやがって」
自分のことも含めてだがな…と、自虐の意味を籠めて声にする。




「三橋…かえろ」
三橋は黙ったままで、水谷が伸ばした手を掴んだ。
胸が痛い。
ほんとうは三橋に手を伸ばすのはオレだったはずだった。
2人の様子を見るのが辛くて、窓の方に視線を向ける。
窓を通して見る、朱の色を内包していく空をただ見つめ続けていた。
小さな嗚咽が遠ざかる。
音が、遠ざかる。
ドアの閉まる音を聞いた時に、その音をする方を振り返ったが
もちろんそこには何にもなかった。
世界に自分だけが置き去りにされたようだった。
胸の痛さに気持ちが押しつぶされそうになった時に
携帯メールの着信音がなった。
開くと三橋からで『すきだ』と一言だけのメール。
どんな気持ちでこのメールを打ったのかと思うと辛くてたまらない。
その辛さを上回るほどに三橋を愛しく想う気持ちが阿部の中にあった。
オレも『好きだよ』とそれだけを返す。
不器用な2人だけど、せめて文字だけででも繋がっていたかった。
ほんとうの気持ちを伝えたかった。
他に今はどこにも言葉を持たないから。
じわりと涙が滲むのを抑えきれない。
目頭が熱くなり、涙が零れる。
止まらなかった。視界の空が揺らいでいた。



「なあ」と自分以外誰もいない部屋で、
暮れていく空に向かってオレは問うた。



今この時だけは泣いてもいいだろう?
明日っからまた頑張るから、絶対に諦めたりはしないから。
たとえ何かが壊れてしまったとしても。



三橋を想って生きていくんだから。
まだ始められると信じていくんだから。







三橋がたぶん好きだろう、青と朱と、
その狭間の緑が入った窓越しの空は、何も答えてはくれなかったけれど
優しい色でずっとオレの視界に存在していた。











やがて世界は暮れて、だんだんと夜になるだろう。
夜を越えて、その先にある朝を望んでしまっている。





光在る、明日を信じているのだ。
















人は誰でも何らかのトラウマを抱えて生きている。
忘れたい記憶もなかなか忘れることができなくて
泣きながらいくつも抱えて生きているけれども
たくさんの幸せで
たとえそれが小さな小さな幸せでも
それらで心を埋めていって人生の道を歩いていきたい。

人は独りでは生きていけない。
私の周囲の優しい人たちに、力いっぱいのありがとうを。




BGM : ACIDMAN 『toward』







back

2007.7.8 up