視線だけが
追いかけてくるような












『追いかけるもの』










先手必勝という言葉が好きだった。
だからだという訳でもないのだが、
オレ、泉は朝練の後普段の倍速で着替えて、1年9組の教室に向かって走った。
いつもは始業ぎりぎりに滑り込むのに。





教室の奥、窓際後方の席に浜田の姿を見つけ、息を呑みつつ
走る勢いを殺さずに近づく。
「浜田!」
浜田は驚いた表情のまま、立ち上がった。
オレは口を引き結び、浜田を見据えて言った。
「おはよう」
笑えなかったけど、言った。





いろいろ抱えているのが辛くなって、勢いで告白して
けれど何にも、そう、言葉のかけらすらも返してもらえなくて
たくさんたくさん泣いたけど。
想いを伝えたことで、それを受け止めてもらえなかったことで
今までのお互いの長い時間をすべて帳消しにしてしまうつもりはさらさらなく、
だが浜田が望んでいるであろう幼馴染の関係に戻すには
きっかけがやはり必要だった。
ちゃんと挨拶もできなくなるようなら、この近すぎる距離は辛いだけで。
自分の内に勇気を探した。
心の中はまだ傷がいっぱいで、その傷はすぐには癒えるものではなく、
どこもかしこもちりちりと痛い。
そんなことは分かっているからこそ、「おはよう」と言える勇気を探して。




「泉…」
浜田はしばらく沈黙していたが、
突然、すごい力で抱き寄せられて驚愕する。
こ、ここは教室だ!
「…何してんだ、オメーは!!」
「いずみーっ」
「離せっ、コノヤロ!!朝の教室でバカやってんじゃねえ!」
じたばたと暴れていると、後方から田島の声がした。
「おーっ!オレもオレも!」
「のわっ」
浜田の変な叫びが聞こえた。回り込んで田島が浜田の背中に飛びついたらしい。
教室中に笑いが広がる。
「野球部はいっつも元気だなー」
「毎日楽しそうよね」
聞きなれたクラスの連中の台詞が耳に飛び込んでくる。
援団の浜田もしっかりと野球部に一括りにされていたりする。
すぐに予鈴が鳴って田島が離れて、その後やっと浜田がオレを離した。
そして笑顔で言うのだ。
「おはよう、泉」
その顔と優しい声に、ああ、まだ好きだな、と確認する。
引っ掻いたような傷だけが、増えていく。





「じゃ、な」
ひら、と手を振って、前寄り中央の自分の席に向かう。
視線を感じて、振り返った。
浜田と目が合った。
数秒見つめ合って、浜田の視線はそのままで
向き直って机にカバンを下ろした。




また笑うことが出来なくなっているけれど、
今度はどんなに時間をかけてもきっと戻すから。
幼馴染として笑える日々に、ちゃんと戻すから。




時間だけが癒すのだろう。
たくさんの、このたくさんの傷。
もう涙は簡単には出ないようだった。
きっとあの夜に、
あんまりたくさん泣きすぎてしまったから出ないのだ。












痛みはずっと消えないまま、
そのせいで眠れない日が続いていた。




フラッシュバックのように告白した後の浜田の顔が
脳裏に鮮明に残っていて、それがちらついて眠れない。
それでも、うとうととはしていたのだろう。
真夜中に電話が鳴って、慌てて飛び起きる。
ディスプレイに表示された「非通知設定」の文字、
数秒の着信時間に大きく溜息をついてベッドに座り込む。
じわりと感じる首筋の汗が不快だった。




浜田じゃない。
分かっていることだったけれど。




告白する前と後で、学校での態度は変わらなかったが
一番変わったのが、電話とメールの頻度だった。
部活関係の連絡事項の他は、ほとんど携帯によるやりとりをしていなかった。
もちろんあれから一度も浜田の家には行っていない。
着信履歴を表示して、その画面の浜田の名前を見つめながら
ただ見つめながら、その日の夜を過ごした。
いつまでも長い夜の中に閉じ込められているような
そんな気がずっとしていた。




何故だろう、気が付くと浜田の視線だけが
オレを追いかけてくるようになった。
少なくなってしまった言葉の代わりに、学校にいる間、
いつも浜田がこちらを見ているようだった。
感じる視線は、自分の期待でも勘違いでもない。
だって振り返ると視線があってしまうのだ。
向こうはその視線を逸らそうとすらしないのだ。




何でなのか、分かんねーよ。









「何か理由があるはずだとは思うんだけど?」
栄口はそんなことを言う。
部活前の部室で。こっそりと話をする。
「オレをずっと見てんのに?」
「そうじゃなくて」
あっさりと否定が返って来て困惑する。
「告白の返事が返ってこない、その理由」
「そんなもんあんのか?あいつが逃げてるだけだろ?
調子にのってバカなことばっかり言ってきたから、いざとなったら
きちんと対応できなくなっただけだろが」
キスしたい、とか、そんな勝手なことばっかり…
今思い返してもうれしくなるようなことばっかり言ってくれちゃって。
「……でも、大丈夫?」
栄口が心配そうな顔をして、オレの顔を覗き込んでいた
「頑張ってるよ。ありがと、栄口。
しばらくダメダメなオレだけど、見守ってて」
「泉……」





傷は時間だけが癒すのだろう。
だんだんと痛みのすべてが楽になっていくのだろう。
その代わり抱えている浜田への気持ちも、
やがては風化して無くなってしまうのかなと思うと、悲しくなった。










先手必勝という言葉が好きだった。




もう何を先手というのかすら、かなり怪しくなってはいたのだが、
思い切って浜田に訊いてみた。
数日後のぱらぱらと人が残る教室でのことだった。
放課後の部活前、三橋は田島に頼んで先に部室に行っててもらった。
「なんでオレばっか見てんの?」
「…気づいてた?」
「あれで気づかないってのは、余程のバカヤローだと思うけどな」
浜田はオレの前でただ笑っていた。
その笑顔がかっこよくて、ムカツク。
「理由言いやがれ。気になってしょうがない」
「理由なんかないよ」
「は?」
「ただ見てるだけ。ごめんね」
謝られたって、困る。困るんだけど。
「お前が何考えてるか、最近ちっとも分かんねー」
吐き出すように言ったら、浜田も繰り返して言った。
「……ごめんね」





何に対してか分からない、謝りの言葉だけもらって
追いかけてくる視線を突き放すこともできなかった。




焦燥感に身体を蝕まれながらも、
それでも幼馴染という関係に縋って、
オレは現実というこの場所に居なければならなかった。
逃げることは考えなかった。







浜田を好きな気持ちだけが、
そこまで大きかったのだ。




















『電話3』の後の話になります。










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2007.2.3 up