触れていく手は
うれしかったのに。












『触れていく手』










秋の空に、それは綺麗な薄い雲が流れていて
廊下の窓を通して見えていた。





教室移動のために休み時間の喧騒の中、
田島はその空を見ながら小走りに駆けていたので、
衝撃を感じてしばらくしてから、人にぶつかったのだと気が付いた。
「うわ、ご、ごめんっ」
しっかりと抱きとめられて、慌てて謝って、
そこでようやく窓のとおくの空から視線を外した。
「たぁじま!」
視界に映るのは、花井だった。
7組の教室の前を通っていたので、目の前にいてもおかしくはないのだが。
いつもの調子の花井の声で、田島はそれがうれしかった。
「花井、ワリぃ」
追加で謝りつつ、自分の身体を離す。
ずっと抱きとめられていたかったのだが、
自制しないとすぐに痛みがやってくる。
それでも視線は逸らせず、花井の目をじっと見つめた。






木々はすっかり色づいて
そこから落ちた枯葉が視界の端で舞う、
夏と冬の狭間の季節だった。
物憂げな風が肌に触れつつ通り過ぎていく。






昨日の花井は何処かおかしかった、…と思う。
数学の再追試のため、田島の家で2人っきりでいて。
突然だった激しい口付けの記憶は
甘い感情と共に今でも思い出せる。
うれしくて受け入れてしまったのだけど
何処か捻れるような痛みを感じていて。
その1点だけが、苦しかった。






「田島…」
名を呼ばれても、視線は逸らさない。
田島は花井を見ていたかった。
教科書を持っていない方の手首を、
花井に思ったよりも強い力で掴まれて、驚いた。
動けないでいたら、背後から「田島ぁ」と声を掛けられる。
浜田の声だ。
「田島、急がねーと時間ねーぞ。
お前連れてかねーと、泉に怒られんだけど」
近づく浜田を見て、花井は慌てて田島から手を離す。
「おう花井、どうした?」
浜田は2人の間に流れる微妙な空気を気にすることなく、暢気に問うてくる。
「ちわ。田島がぶつかって来ちまって。いつも廊下は走んなっつってんのに」
「だからワリぃって」
空を見ていて、ロクに前を見てなかったのは田島だったので
反論の余地はない。
「気ぃつけろよ」
そう言って花井は田島の頭を少し高いところから、
身長の差の分の高いところから撫でるように触れた。
うれしくてうれしくて、痛かった。
そしてただひたすらに苦しくて、
苦しさの中で、窓の外の空を思った。







花井が見てる空は
自分との差の分、いつも近くにあるのだ。
きっとそうなのだ。
自分には、遠い空がある。
手を伸ばしても、とんでもなく遠くにある空。
少しでも近づきたいのに。






「じゃ…な」
再び田島は目を開けて、手を振りその場を離れる。
花井の視線を感じたが、お互いそれ以上何も言いはしなかった。
浜田は田島の後をついてくる。







ほら、花井の手が微かに自分に触れるだけでも
こんなにも痛いのだ。
だから近づけば、いつも傍にいれば、
きっともっともっと痛いに違いない。






痛さを抱えるのは、
ひとりで抱えていくのは苦しいことだった。











「なあ、田島」
「…なに?」
「なーんか辛いこと抱えてねーか?
いつも子守りをしている優しいお兄さんに話すことない?」
廊下を歩きながら、浜田がそう訊いてきた。
田島も速度を落とし、浜田の横に並ぶ。
目は合わせずに疑問符だけを投げ返す。
「なんでそんなこと訊くんだ?」
「……」
辛くはないんだ。痛いだけで。
ひたすら苦しいだけで。
「田島。もイッコだけ訊いていい?」
「なんだよ、お前今日朝からおかしいよ。
まだ風邪ちゃんと治ってねーんじゃねーのか」
「最近さ、…いやもう結構前から、花井に向かってって
どーんと抱きつくことってしなくなったよな。どして?」
不意打ちで核心を突かれて、黙り込む。
田島は立ち止まり、横でへらんと笑っている浜田を見上げた。
「あんなにワンコロみたいにくっついてったのに、
それをしなくなったのはどして?」
もう一度、問われた。





何時からだったのかはもう忘れてしまったが、
浜田は田島担当に泉から任命されているらしく、
何処か飛んで行きそうな、いや実際に飛んで行ってしまう田島を
いつも見失わないように目を配っている。
ずっと見ていれば、花井に対する態度の変化にも気が付くのだろう。
浜田は返事を待っている。こちらを見たまま動かない。
でも本当のことは言えなかった。
「痛い」という事実を、田島は上手く言葉に出来なかった。
「……オレも、少しは、オトナになった」
「ああっ、そう返してくるのかー。うわー、予想外だ」
「なんなんだよ、一体」
「向き合えないのなら、逃げたって仕方ねーんだよ」
真面目な声が、降ってくる。
「なあ田島。自分の中にはいろんな自分が居る。本当はそのどれとも
ちゃんと目を背けないで向き合わないといけねーんだって分かってはいるんだ。
でもさ、どんなに自分に納得がいかなくても、
それをできないときは逃げることを選んでもいーんだよ」
言われていることの意味は、良く分からなかった。
浜田にしては、難しいことを言っている。
ただ自分にではなく、
そのまま浜田自身に向けられているような気がしていて。
「逃げてもいい」と言われている、それだけは分かった。






逃げようとしているのかもしれない。
「痛さ」から。
そして、その痛さをいつも連れて来る花井から。
傍にいたいと思っているのに。






「田島」
浜田からは頭をぽんと叩かれる。
「やっぱ、オレおかしいわ。…ごめんな。なんも力になってやれねーで」
そう言って顔をどこか歪めたまま笑っていた。
チャイムが鳴って、2人は顔色を変えて走り出す。
花井に掴まれた手首は、まだ熱いような気がしていた。


























「はーない」
「…何でお前まだ残ってるんだ」
「オレ今週カギ番なんだけど」
練習後の部室で。
カギを閉めて帰ろうとすると、花井の荷物だけが残っているのに気が付いて。
だから待っていた。
日が暮れるのは随分と早くなって、もう外は真っ暗だった。
「ああ、そりゃ悪かった。カギ預かればよかったな」
「どこ行ってたんだよ」
田島が問うと、花井は天井に向かって指を1本立てた。
そういえば夕方から部室の蛍光灯がひとつチカチカと点滅していた。
見ると長めの蛍光灯を1本抱えている。
「蛍光灯の両端が黒ずんでるだろ。
もう古いから、事務室行って新しいのもらってきた。
まだ開いてたんで助かったよ」
「さすが主将」
「るせー。背があるから蛍光灯とか家で替えなきゃなんねーんだよ。
だから替えるのも慣れてっしな。お前、ちょっと手伝えよ」
「うん」
部室の隅から、生徒用の机をひとつ花井が運んでくる。
こういう時のために置いてあるのかと田島は思った。
「ちょっと机支えててくれ」
「おう」
花井は机の上に乗り、手際よく蛍光灯をはずしていく。
「新しいの取ってくれ」
古いやつを受け取り、新品の蛍光灯をケースからだして花井に渡す。
「ここのはそうでもねーけど、がっこの蛍光灯ってスゲー長いよなあ。
一度運んだことあっけど、オレより背、あんじゃね?」
はずした蛍光灯をケースに収めつつそう呟くと、
花井はこちらを見て笑った。
「田島、ちゃんと支えてろ」
「ヒジと足使ってっから大丈夫だって」
「オレが落ちたらどうすんだ。受け止めてくれんのか」
「ボールじゃねぇしなあ…」
机に掛かる体重を感じなくなったと思ったら、
花井はもう降りていて、あれ、と思う間もなく手首を掴まれていた。
昼間と同じ場所だった。
そのまま覆いかぶさるようにして抱きかかえられた。





花井の質感も体温も心地良さを連れて来るのに
その後にやってくるだろう痛みを予想して身体が強張る。
逃げたくなんかないのに、どうして逃げてしまうんだろう。
そう思った直後に突然感じたのは嫌悪感だった。
花井にではなく、恐らくは自分への。
湧き上がった慣れない感情に田島は戸惑う。
花井は額を田島のそれに触れ合うくらいに寄せてくる。
「目ぇ閉じろ、田島」
「イヤだ」
「田島」
語気が強まる。田島は真っ直ぐに花井を見つめたまま言った。
「花井を見ていたい」
「…っクソ!」
「はない」と名を呼ぼうとした田島の唇は、
花井によって乱暴に塞がれてしまう。
口付けを受け入れることには、まったくの躊躇いがないのだが
またあの捻れるような感覚がやってきて
それが無意識ではあったが、身体を捩らせた。
痛みから逃げようとする自分を、痺れるように揺らぐ意識の中で自覚する。
嫌だった。
理屈も何もかも抜きにして、
ただ逃げようとしてしまう自分に耐えられなかった。
花井を求めていて、触れあいたいと思う自分と
痛さから逃げてしまう自分がいる。
相容れない自分。
野球をしている時には経験したことの無い、
自分へ向かう嫌悪感に田島はものすごくショックを受けていた。






あの時浜田は何と言った?
自分と向き合えなくて、逃げてもいいのだと、
そう言ったのではなかったか。
いろんな自分がいるのだからと。
逃げたかったのは、花井からではなかった。
逃げようとする自分と向き合いたくなくて、
その自分から逃げようとしていたのだ。






くやしくてくやしくて、自分に納得がいかなくて、
だからこそ辛くなった。
花井から伝わる熱に、息ができないくらいの痛みの波がきて、
ぎゅうと目を瞑ったら、涙が流れた。
「う……」
その涙に驚いたのか、花井が唇を離した。
「田島」
「……」
口元を手の甲で覆ったまま田島は俯き、泣き続けていた。
「田島…お前、も、帰れ。カギはオレが閉めて帰っから。
じゃねーと、ほんと何すっかわかんねーから」
身体を離し、無言で田島はカギをポケットから出して渡す。
帰る前に伝えなければならないことがひとつだけある。
「泣いてんの…花井のせいじゃねーから。ごめん…」
「……」
これは自分の問題だった。
探しても探しても、答えが見つからない問いを抱えていた。
決して花井のせいじゃない。
たとえ田島を乱す、すべての感情を花井が連れて来たのだとしてもだ。
「…花井、ごめん…」
花井が怒っているんじゃないかと思って、不安になりながらも顔を上げると
泣きそうな顔をして花井は田島を見ている。
手はやはり高いところからそっと降りてきて、田島の頭を優しく撫でた。
そうやって触れていく手は、うれしかったのに。
嗚咽を堪えきれなくなって、花井から離れた。
「また、明日な」
そう言うのが田島にはやっとで。
花井はずっと無言のままだった。












「オレって、けっこう弱っちいヤツだったんだなあ…」
部室を一人出て、帰り道。
田島はまだ泣きながら、ぽつりと言葉を落とす。
野球をしている時は、弱い自分とは無縁だった。
花井とこんなに近づかなかったら恐らく気づかなかっただろう。
どうやってあの自分と向き合っていいのか
田島には皆目分からなかった。






田島の気持ちも、花井との関係も、深い事情は知らないはずなのに
逃げてもいいのだと、浜田は田島に言った。
その言葉だけが、今の田島にとっては救いだった。
もはやそれ以外に縋るものが見つからなかった。











だから。
花井との距離を離そうと決めた。





そう、田島は決めたのだ。





















逃げているようで
本当は逃げていない

ただ
向き合えないだけなのだ
自分と










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2006.10.20 up