伸ばした手を
振り払われたら
どうしよう











『伸ばした手』










三橋は流れ落ちる涙を抑えることができなかった。
どうやって家まで帰ってきたのだろう。
自転車は敷地内に放り出したまま、
玄関の引き戸を大きく音を立てて閉める。



靴も乱暴に脱ぎ捨てて、カバンもそこらへんに投げて
けれど家の奥には進めずに、その場に座り込んだ。
嗚咽も抑えきれない。



誰もいない夕方の自宅で
独り三橋は泣いている。












木々はすっかり色づいて
そこから落ちた枯葉が視界の端で舞う、
夏と冬の狭間の季節だった。
物憂げな風が肌に触れつつ通り過ぎていく。





陽は落ちて、静かに世界に闇は満ちてくる。
午前中まで降っていた雨は
もうあちこちに湿り気を残すだけになっていた。
今日から中間考査で午前中で学校は終わった。
部活も無い。




三橋はもうどれくらい泣いていたのだろうか。
カギを閉めなかった玄関の戸が、静かに開いた。





そこには阿部が立っていた。







三橋は振り向いて、振り向いて泣きながら笑った。
好きで好きでたまらなかった。
何時でも何度でも気づかされる。
阿部のことがこんなにも好きなのだと。





「三橋」
「阿部…君」
そんなに辛そうな顔をしないでと、それだけを思う。
阿部がこちらに近づいてくる。
三橋は身を強張らせたまま、動くことができなかった。



























秋が来て、
そしてまた、過ぎていこうとしている。






三橋は阿部に手を伸ばしたかった。
そのために勇気をずっと溜めてきていた。
だが逃げ出したくなるほどに怖くもあった。
もし、その手を振り払われてしまったら…。
そんなことに怯えていて、夏は過ぎ秋は来て
あっという間に試験期間に突入していた。





10月の中間考査前で部活は休み。
さすがにもう野球部全員は揃ってなかったが
いくつかのグループに分かれての勉強会は続いていた。
それぞれの家だったり、図書館だったりと場所は様々だった。
赤点を毎回懲りずに危惧されている三橋と田島の2人には
阿部と花井が必ずついていた。
ついている…はずだった。





一昨日、三橋の勉強を見てくれたのは花井だった。
花井から習う英語はかなり分かりやすくて
試験問題と向き合うのが少しは楽になってきている。
昨日は西広で、英語と数学以外の3教科を
優しく優しく教えてくれた。
中間考査1日目の今日は再び、花井だった。
「阿部には迷惑かけちまってる。1対1じゃないと田島が調子に乗るんだよ。
…寂しいだろ、ごめんな」と、何故か花井は自分に向かって謝っている。
阿部はずっと、田島のところに居て
前回もその後の小テストでも数学でかなり危ない点数を
取り続けていたので、この試験前、そして今日も
阿部がつきっきりで教えているらしい。
「オレは田島に対して、いろいろ抑えが効かなくなってるからな」と
何処か遠くを見ながら、花井はそう言っていた。
意味がよく掴めなくて、首を傾げてみたけれど
花井は力無く笑うばかりでそれ以上は何も言ってはくれなかった。





昨日までの昼休みはいつものように、三橋は7組にいた。
阿部もちゃんと傍にいるのだけれど、彼の眼差しはいつも心地よくて
すぐに眠りに誘われてしまうので、ここしばらくは
ゆっくり話もできていなかった。
部活も無いので、そのせいか阿部を遠くに感じてしまう。
「ちょっと田島の家に寄って、後でお前ん家にいくから
先に勉強始めてろよ。数学やるぞ」
「う、うん、オレ、頑張る」
平気な振りして、笑顔を作って、そう三橋は答える。
本当は「行かないで」と「傍にいて」と言いたいけど。
しょうがないのだ。
この状況はしょうがないのだ。
自分から離れていく、阿部の姿を見つめつつ
抱えた苦しさに倒れそうになる。










阿部が傍にいるのが、当たり前になってしまっていた。
その心地よい状態が、日常になってしまって
いざ、彼の姿が見えなくなると、こんなにも動揺する自分がいる。
「オレだって、数学、ダメダメなのに」
阿部が田島のところにいることを
しょうがないと分かっていても、そのしょうがないを
受け入れることができていない。
何を置いても自分のことを考えて、自分の傍に居てほしいなんて
なんて我儘なんだろう。
「こんな我儘なオレ、…嫌われちゃうかも…」
ずっとマウンドを譲ることができなかったように
阿部のことも抱え込んで離せなくなっていくようで。
「阿部くんに、…嫌われたくない、よ…」
三橋から「好きだ」と言って、阿部からも「好きだ」と返してもらった。
だがその気持ちは決して不変なものではない。
気持ちは変わるかもしれない。
触れないようにしている疑問符はいつも心の中にあって。







もし投げることができなくなっても
阿部は自分を見てくれるだろうか。







阿部は三橋の何処を好きだというのだろう。
究極のところ、腕だけに、足だけになったとしても
好きでいてくれるのだろうか。
身体だけがあればいいのか、やはり心は不可欠なのか。
三橋には分からなかった。
それはそうだろう。
自分も阿部の何処が好きなのか、答えることができないのだから。
「好き」という言葉しか、三橋は持たない。
その感情は真っ直ぐに阿部に、パーツではなく
まるごとの彼に向けられていた。
阿部もそうだと信じたかった。










独りきりの帰り道、三橋は泣きながら帰った。




悲しくなって寂しくなって、世界中のすべてのものが
自分に背を向けているような気がしていた。
そんな状況は前にもあって、それでも平気だったのに。
投げられれば、マウンドという場所さえあれば良かったのに。
阿部の存在が三橋の世界を根底から変えてしまった。
光をたくさんもらってうれしかったのに、光には必ず影が出来る。
宝石のように光る想いにも、影が出来ていく。
心には穢れたものも増えていく。
好きになればなるほど増えていく。





自転車の車輪はうまく回らずに
何度も転びそうになりつつも、ようやく自宅に辿り着いた。
そうして。








誰もいない夕方の自宅で
独り三橋は泣いている。
もうどれくらい泣いていたのだろうか。
カギを閉めなかった玄関の戸が、静かに開いた。
そこには阿部が立っていた。







「泣いてんのは、オレのせいなのか」
阿部の言葉にびくりと身を震わせる。
自転車もカバンも靴も放り出したままだった。
この状態で玄関に座り込んで泣いていれば
心配させるに決まっているのだ。
「ごめん、なさい。お、こんないで」
動かない身体をそれでも動かして、必死で後退さる。
笑うんだ。大丈夫だって言うんだ。
うじうじと寂しがってばかりいるって分かったら
阿部に本当に嫌われてしまうと三橋は思った。
心の中にたくさんあるキタナイモノを見せたくはなかった。
嫌われてしまったら、生きているのも辛くなる。





「ちっげぇだろが!!」
阿部は靴を脱ぎ捨て近づいて、三橋の腕を掴んだ。
震え上がって三橋は、ふるふると首を振った。
涙の雫は揺れて零れ落ちた。
闇をさらに含んだ視界と息苦しさで、抱き締められていることが分かった。
瞬間、三橋は声を上げて泣き始めた。
「あ、べくんっ、あべくん、あべくん」
「三橋、ごめんな」
「う、うう…」
「なあ、言ってくれよ。ちゃんと、言ってくれよ。
本当は言われなくてもお前の態度とかでいろいろ分かってやんないと
いけねーんだろうけど、オレはその辺分かってやれねーんだよ。
だから言ってくれよ。そんな風に独りで泣かないでくれ」
阿部が悪いわけじゃない、三橋が独りで落ちているだけで。
それなのに、こんなに優しい言葉をかけてくれる。
泣けて泣けて、止まらない。
「阿部君、…怒る」
「怒んねーよ。オレは怖いもんなんかねーし。
例えお前に嫌われたとしても、それをちゃんと受け止めるよ」
「嫌いじゃ、ない!」
目も頬も赤くして、三橋は叫んだ。







逃げてたら、いつまでも前に進めないんじゃないんだろうかと思う。
何もかもをかなぐり捨てて、死ぬ気で手を伸ばして
大事なものを掴み取らなければならないんじゃないかと思う。
そのためには自分の内にあるどろどろとしたものと向き合って。
向き合って、それでも阿部に対する想いを
信じていかなければいけないのではないのか。





三橋は掠れた声で小さく唸って、阿部の胸を押しやって離れた。
阿部はじっとこちらを見つめている。
その真剣な眼差しに、心打たれた。
勇気はもう十分に溜まっているはずだ。



















三橋の手が、阿部に向かって伸ばされる。





「阿部君、オレ、阿部君が好きです」
「……」
「だか、ら、…オレと、お付き合い、してください」







三橋は泣きじゃくりながら、それでも。






手を、伸ばした。
























阿部視点の『伸ばされた手』に
続きます。







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2006.9.24 up