世の中には
わかんないことがたくさんあって
それってやっぱ当然だ


だって
自分のことも
全然わかんないんだ











『夕刻の溜息』










田島は自分の家、自分の部屋に仰向けに転がったまま
窓の外に広がる夕焼け空を見ていた。
流れる雲をもただじっと見ていた。
そして、大きな大きな溜息をついた。





眠ってしまってる花井が田島の上には覆いかぶさっていて
身動きができなかった。
疲れてるのが分かっているから起こしたくはなかった。
このまましばらくの時を過ごしていっても
それはそれで全然構わないのだけれども。





「痛ェ…」
捻れるように痛かった。
体ではなく、心が。





何でこんなことになってるんだっけ…と
ぐるぐると、既に不鮮明な記憶を巻き戻してみる。
季節は秋になっていた。














今日はミーティングだけの日で、部活は早い時間に終わった。
何故花井が田島の家にいるのかというと、
数学の中テスト(決してあの量は「小」ではない!)で
田島と三橋が追試になり、その追試も点数が思わしくなく
明日再追試となってしまったからだった。





「なんで花井なんだよ。泉は今日どしたんだよー。
いっつも優しく教えてくれんのにさあ」
「オレで悪かったな。大体お前ら泉に頼りすぎなんだよ」
田島の家で花井と2人向かい合って、出してきた低いテーブルの上、
数学の教科書やワークを広げさせられている。
花井は厳しく、それは厳しく教えてくれるので田島は不機嫌だった。
ぶーたれていると、ぼそりと花井は言った。
「栄口から頼まれたんだよ。泉は今日用事があるんで早く帰るんだってさ」
「…なんで栄口?それにオレと一緒に三橋もまた追試だぞ?」
「あのな、天使の副主将から、主将のオレと副主将である阿部に
お前たちをよろしくと直々のお願いがあったんだよ。
いつもいろいろ世話になってんのに簡単に断れっかよ。
三橋のトコには阿部が行ってるぞ。交代すっか?」
「…それはカンベン」
三橋がんばれと田島は心からのエールを送った。
数学を教えてくれるときの阿部はいつにも増してすごく怖いので
厳しいけど花井でよかったと思う。
それに…





花井といると、どきどきする。
すごくすごくうれしくなる。





これで勉強なんかしなくていい状況だったら
どんなにかよかっただろうにと、
田島はそう思った。







数学のワークの問題を解きながら田島は問うた。
「泉……浜田んトコ行ったのかな?」
「…浜田が何だって?」
逆に問い返されて、その答えを慌てて探す。
「んーと、何かへんなんだよ。あいつ今日も学校休んでた」
「へんって、どんな風に?」
「こないだから、忌引きで鹿児島なのに大風邪で、元気になったって
メールくれたのに、今日また突然休んで携帯も通じねー」
「………」
「花井?」
「お前の言ってる意味が、よく分かんねェ…」
花井は田島の向かいで頭を抱えていたが、
田島もこれ以上上手く説明することができなかった。
野球のことなら、頭の中の何処かのスイッチが入ってしまうようで
いろいろと考えることが出来るのに、勉強に関することと
あと周りの状況を把握するということが、
田島にとってはどうも苦手なことだった。
「花井はさ、きっと何でも分かってて、
頭ん中もちゃんと整理されてんだろうな。スゲーな、と思ってんだけど」
「…田島」
「違うの?」
首を傾げつつそう言うと、花井は少し考え込んでいるようだった。
「大体お前はオレを買いかぶり過ぎなんだよ。
オレはそんなにたいした人間じゃねーよ」
花井の頬が赤く染まって、こちらをじっと見つめてくる。
その手に持っていたシャーペンの頭で、田島の額を軽く突いた。
田島はニシシと笑う。





ほら。




花井といると、どきどきする。
そしてすごくすごくうれしくなる。





自分のこころに広がるものがその感情だけだったら、
どんなにかよかっただろうにと、
最近ずっと田島はそう思っていた。









あの2人で部室で会った夏の雷の日から
もうひとつ今まで感じたことがなかったものが
田島の中に存在していた。





それは、痛みだった。
捻れるような。
意識ごと捻れてしまうような。





花井といて、わくわくしたりして
どきどきして、うれしくなればなるほど
一緒に痛みもやってきて
胸がぎゅっと苦しくなって
やっとの思いで息を吐いて、吸う。





…なんでなのかなあ。












「ほら田島、頑張れ。さっきの公式使って
そのページの下のヤツも解いてみろよ。同じパターンだぞ」
「おう」
分からないことばかり考えてても仕方が無い。
とりあえず目の前のこの問題をなんとかしないとと
くるくるとまわしていたシャーペンを持ち直して
ワークに再び視線を落とした。






悪戦苦闘の末になんとかその問題の答えを導き出し、
花井の方を見ると…テーブルの上に頬杖をついたまま眠っていて。





その寝顔をもっと近くで見たくて、田島は傍に寄った。
寄って、見上げて、花井の顔を見つめて。
そうしたらバランスが崩れたのか、田島に向かって
花井は眠ったまま倒れこんできた。
























田島は仰向けに転がったまま
窓枠に切り取られた空を見上げる。
沈んでいる太陽が西の空を赤く染めている。





溜息をついた。
自分にはあまり似合わないような気がする溜息を
田島は一つ、二つとついた。
花井は田島のこころにある、いろんな感情を掻き乱す。






「なんでこんなに痛ェんだよ…」
漏らした声に目を覚ましたのか、花井は体を起こした。
「悪ィ、痛かったか?」
「お前、寝ちまってた…ぞ」
花井の視線を感じて、田島は顔を上向ける。
次の瞬間口付けられて、田島が吐こうとした息も言葉も
そのまま花井に吸い取られてしまった。
優しい口付けでは決してなかった。
両腕は押さえ込まれていて、動けない。
まるで噛み付くような花井の口付けは
このまま食われてしまうんじゃないかと思うほどの激しさだった。





「田島」
離れた唇から紡がれる自分の名に、湧き上がる甘い感覚があって。
だがそれを追いかけてすぐに痛みもやってきた。
痛みから逃げようと体を捩じらせるが、花井はそんな田島を掴まえて
覆いかぶさったまま抱き締めた。
「何処にも、行ってしまうな」
「…なんだよ。なんでそんなこと言うんだよ」
花井はその問いには答えをくれなかった。
田島も、行かない、とは言えなかった。








涙が出そうになるほどこころは痛くて、
もう傍にいれないんじゃないかと思ったのだ。











世の中には分からないことだらけだけど
それでも、田島にも分かることがある。











うれしさもどきどきもわくわくも
そして痛みも花井が全部連れてきた。



目の前にいる花井が全部連れてきたのだ。












誰か。



誰か答えをくんないかな。













なんでこんなに痛いんだろうと田島は思う。





花井に強い力で抱き締められたまま、
田島の目に映る世界は涙で揺らごうとしていた。



















ハマイズ話『電話』3部作(まだ書いてません)の
翌日の話だったりするのですが。


『朝焼け』『光』を読まれた方はご存知の通り
答えは花井が持っています。
ただ、当の花井がその答えに気が付くのは
この時点より、もう少しだけ後のことになります。


わざと花井視点では書かなかった1作。
書いたらすごく長くなったでしょう。
きっと花井は田島の10倍はいろんな思いを
この頃抱えていたのではないかと思います。


2人の初ちゅー話ではあったのですが
このまま次のお題「手」の
『触れていく手』に続きます。
再び田島視点になります。









2006.8.14 up