角膜のどこかで
夏の空を追いかけていた



白球を追って
その視線の先にある
高く高く
突き抜けるように高く
敷き詰められた青の色を
存在感を増して広がる入道雲を



それらを内包して
存在する空を追いかけていた







まだあちこちに
夏の余韻を残したまま
それでも季節は
秋に移ろうとしている











『昼間の息遣い』










まだまだ外気温は高く、夏の暑さを十分に引き摺ってはいたが
夏休みも終わり、すでにカレンダーは9月になっていた。






すっかり慣れてしまい、三橋の日常の一部となってしまった
1年7組での昼休み。
目を覚ますと、向かいで阿部も眠っていた。
視界に広がる漆黒の髪も、伏せられた瞼も何もかも
目にするのは初めてで、心臓が跳ねるようで息も荒くなっていって。
起こしちゃいけない、そう思って三橋は息遣いを整えようとした。
そっと、そっと。
息をついて。





「三橋、まだ寝てていーよ」
そう声をかけてきたのは水谷だ。
「昼休み終わる前に声かけてやっからさ」
「う、うん…ありがとう」
水谷はにっこり笑顔でそう言って、その場を離れたが
寝顔の阿部をこんなに間近で見てしまったら、もう眠れそうになかった。










毎日毎日昼休みに目を覚ますと、目の前に阿部の笑顔があって
すごくうれしいと同時に、抱えている不安が薄らいでいく。
9組で眠れなくなったのは、同じ夢を何度か見たからだった。



その夢は、幸せな夢だった。
阿部が三橋に対して「好きだよ」と囁いている夢。
なのに目が覚めると、すごくすごくその夢を抱えて不安になる。
あの初夏の時間にもらったはずの「好きだよ」という阿部の言葉も
本当は夢だったのではないかと思う。
そう思ってしまうから。





夜は練習の疲れもあって熟睡してしまうので
あまり夢は見ないのだが、昼休みはやはり眠りが浅くなり
見てしまうのが三橋にとって都合の良い夢で。
今こんなに幸せなのも、すべてが夢のせいではないかと
思ったら眠れなくなった。
昼食後、眠いのに眠れなくて、しばらくは混沌の中にいたのだが
泉が昼休みに阿部のところで過ごすように段取りをつけてくれた。
それからは眠って起きて、笑顔の阿部の姿を視界に入れて
やっと安心することができていた。







そして今日は、三橋の目の前で阿部が眠っている。
机に突っ伏して、左手は机の上に無防備に投げ出されている。
その阿部の手は三橋にとって特別なものだった。
三橋の球を受ける阿部のその手、ボールと同じ。
いや世界にひとつだけという点では、ボールよりも大事なものだった。
大事に大事に思って、三橋は阿部の左拳をそっと両手で包む。






三橋の掌に伝わるその暖かさに
ほろりと涙の雫がこぼれた。





好き、と
三橋は思う。





ちいさくてちいさくて
それでも宝石のように光る
そんな想いだった。





「あべ、くん」
ほら名まえを呼ぶだけで
こんなにも幸せで
こんなにも切なくなる。






三橋は声を上げて泣きそうになったが、
阿部を起こしたくはなかったので、
息を潜めてじっとしていた。
涙だけは、静かに零れたままだった。







阿部は三橋に好きだと言ってくれたけれども
今でもその気持ちは変わらないでいてくれるだろうか。
不安はいつでもその辺りから湧き上がってくる。







阿部君と、ちゃんとお付き合いをしたいな、と三橋は思う。
あれはいつだったか、不安がってこっそり泣いていた時に
水谷に見つかって、優しく訊かれた事がある。
『それでどうしたいの。どうなりたいの?』
『…オレ』
『阿部とどうなりたいの?』
その時は泣くばかりで、答えることができなかったのだけれど。
今は。
そう今は答えを自分で見つけることができていた。





三橋は勇気を少しずつ溜めていた。
ちゃんと阿部に向かって言えるだろうか。
お付き合いをしてください、と。
自分から。
逃げ出すことはしないで、自分から。
そんな風に彼に向かって伸ばした手を、
いつか阿部は掴んでくれるだろうか。










「なんで泣いてんだ」
「ヒッ」
突然の阿部の声に慌てて、
彼の手を包んでいた自分の手を離そうとしたのだが
その上から阿部の右手が重ねられていて、動くことができなかった。
「お、…おこん、ないで」
「怒ってねーよ。寝起きの顔はこんななんだよ。どうかしたのか?」
三橋は首をふるふると振った。
「いつの間にか寝ちまったみたいだな。…まだ時間はあるか」
「あ、あべくん、手」
「手がどうした」
「や、あの、離して」
「やだね」
阿部はとてもうれしそうに笑っていて、
その顔を見て幸せで息が詰まるようだ。
ほらもう一度、と三橋は息遣いを今再び整えようとする。





苦しいときはまず吐くことから始めるのだと
いつだったか阿部は教えてくれた。
きちんと息を吐いてしまえば、
体は酸素を求めて適量の息を吸おうとするから。
吐いて、吐いて吐いて、
ゆっくりと吸って。





そして潤んだ目のままで、阿部をじっと見つめた。
「阿部君は、最近とても、意地悪、だっ」
言いたいことは溜めずに言えと阿部がいつも言うので
三橋は力を振り絞ってそう言ったのに
ますますうれしそうな阿部の様子に、黙り込んでしまう。
「意地悪…ねぇ。まったくもって今更だよなあ」
阿部はそう呟きつつ、三橋の手を大事そうにそれは大事そうに撫でていく。
そんな阿部を真っ直ぐに見つめることは出来なくて
三橋は視線を窓の外に移してしまった。









恥ずかしいけれど、うれしくて。
うれしくて、幸せで。









だから勇気が湧いてくるのだ。





手を伸ばす、その勇気が。
少しずつ、少しずつだけど。


















夏の空に入道雲が広がっていくように
そんな風に心にも、積み重なるものがあるといい。









まだ夏の色を残している空を
教室の中から見つめつつ、三橋はその目で
過ぎていこうとしている夏を追いかけていた。

















次のお題「手」の
『伸ばした手』(秋 三橋視点)
『伸ばされた手』(秋 阿部視点)に
続いていくと思います。







2006.8.7 up