その雨の降り始めを
ひたすらに
待ち焦がれていた


五月雨(さつきあめ)の影は
ふたりの世界に
いつまでも降っていた


落ちる雨音は
意識の遠いところで
響いている












『落ちる雨音』










秋雨が降っていた。
かなり大粒の雨だった。









「水谷なんか嫌いだよ」
窓に打ち付ける雨音と共に、
オレ、水谷の意識に落ちてきたのは、栄口の声だった。





昼休みの1年7組。
主将である花井、天使の副主将(と最近呼ばれてる)栄口と
悪魔の副主将(と最近こっそり囁かれてる)阿部との
昼食持参でのいつもの打ち合わせも早めに終わって。
阿部は三橋が眠りに来ているので、さっさと自分の席に戻っていった。
その後、いつものように打ち合わせに参加はしてないけど
傍にいたオレに栄口は言ったのだ。
その顔は笑ってはいなかった。
こちらをじっと見つめていた。
「向けられる笑顔だけじゃ、イヤなんだ」と言ってしまったのは、
確かに数日前の自分だったのだけど。
あの日見た爽やかな空は、今日は雲に覆われて見えなくなっていた。
花井はオレの横で呆然としている。






「う、うわー。栄口それってちょっとひどいかもー」
へろんと笑って、オレはそう返した。
なんかまた遊ばれてんのかな、オレ。
「…冗談だと思ってんの?」
栄口の声の硬さに、花井が慌てだす。
オレは、動けなかった。固まってしまった。
雨の音だけが耳にまとわりついて。
あれ、どうしてオレ、今日は曲聴いてないんだっけ?
「水谷はずるい」
「え」
「『嫌い』ってオレが言っても、自分ばかりそうやって笑ってるんなら、
別にそれでもいっけど。……花井、ごめん。教室に戻る」
それだけ言って、栄口はがたんと音をたて立ち上がった。
「お、おい、栄口っ」
花井が引きとめようとしたが、その手を振り切って
逃げるように7組を出てしまった。
オレは、動けなかった。
見下ろす花井の視線を痛いほど感じたが、指一本すら動かせなかった。
教室で泣くのだけは躊躇われて、唇を噛みしめる。





お互いの笑顔の関係を、壊したのは自分だ。
こうなるかもしれないって、心の何処かでは思っていた。
「追いかけねーのか、水谷」
花井がこちらに言葉を投げかける。
オレは縋るような視線だけを、花井に向けた。
「まったく…」
そう言葉を落とした花井は、オレの腕を掴んで無理やり立たせた。
「ちょっと来い」
教室の外に引きずり出されようとする。焦る。
「え、花井、オレ、栄口ンとこは」
「違うから、来い」
廊下側に近い席の阿部の方を見ると、
阿部はこちらを見ても何も言わず、手をひら、と振って見せた。








雨が降っていた。
冬が近いことを実感する、そんな冷たい雨が降っていた。











「ああ、やっぱここ…」
押し込まれたのは、野球部部室だった。
花井は主将だからなのか、何かあるとよく部室を使っている。
教室に比べて、さすがにここは雨の音がよく響く。
「お前好きだよねー、部室。いっつもカギ持ってんの?」
「るせー水谷。さっさと吐いちまえ。栄口に何やらかした」
「えー」
話すのかよ、数日前のあれ。
「…どっからどこまで…?」
「話せるだけでいっから。事情はできるだけ把握したい。
お前ンとこまで大変なことになってるなんてな」
…大変って、確かにそうだけど。オレのとこまでって。
なんかオレが気が付かないうちに、野球部どうにかなってんの?
そりゃ、目の前でそんな言ってる花井の様子も
最近ちょっとおかしいけどさ。ずっと塞ぎこんでるし。
「…話すけど…。じゃあさ、花井。質問。ひとつだけ」
「なんだよ」
「今1番ヤバイのはどいつよ?」
花井は押し黙った。






「花井はオレには吐けーって言ってて、自分は黙秘すんのかよ」
それって都合良過ぎね?とオレは毒づく。
「…はっきり本人に訊いた訳じゃねーし。推測の域を出てねーから」
「オレさ」
「うん?」
「お前が言う、そんな大変な状況の時に、これ以上さ、
あんま不用意に人を傷つけたくないんだよ。よかったら教えてくれよ。
教えてくれたら、そいつに対する態度は気をつけっから」
「お前な…」
花井は大きく息をついていた。
「どいつよ」
「……泉」
「なんで泉?あいつ、いつもしっかりしてんじゃん」
「だからこそ、人になかなか弱みを見せられねーってこともあるんじゃねーの?」
「浜田となんかあったの」
「…そうかもな。とりあえず水谷、あの辺は突くなよ。
それより、お前の今の状況の方をどうにかしろよ。
オレ、胃に穴はあけたくねーんだよ。これで今はなんとか落ち着いている
うちのバッテリーにでもなんかあったら、マジで身が持たねーぞ」
「大丈夫じゃねーの?あのバッテリーは」
「なんでそう思う」
「阿部は怖がってねーから」
「……何を?」
オレは、にこにこ笑ってそれ以上は答えなかった。
阿部はきっと怖がってない。勘だけどさ。






きっと怖がってない。
……壊れてしまうことを。




壊れてもそれでも
その先に続くものを
信じている。




オレも信じたいんだ。
信じたいんだよ。











花井の真剣な瞳に、オレの気持ちはちょっと落ち着き、
部室の隅に座り込んで、ぽつりぽつりと話し始める。
ある程度話したところで、2人して溜息をついた。
「あのな…それじゃ、お前のほんとうの方が見えないぞ」
花井はそう言うけれど。
「そーかなあ?」
「分かってねーな。栄口から『嫌いだ』って言われたときに
たぶん笑っちゃいけなかったんだよ。
人に言っといて、自分が笑顔に逃げてどーすんだよ」
「え」
「栄口のほうも、ほんとうの気持ちが欲しかったんじゃねーの?違うか?」
だってそれじゃ、
それじゃ栄口は、まるでオレのことが好きみたいじゃんか。
それって、やっぱり期待しちゃうじゃんか。
オレの肩をぽんと叩いて、花井は笑顔を見せた。
「好きなんだろ?栄口のこと」
「……好き、だよ。伝えること、できてねーけど」
「そういう気持ち、オレも分かるから。焦んなよ」
「…うん」
「きっと、なるよーにしかならねーんだよ。どんなに足掻いても」
雨の打ちつける窓の外を見ながら、花井はそう言ったのだ。
足掻いているのは、誰だろうか。



















授業が終わって、明日から中間考査で部活がないことに、
栄口と顔をあわせなくてもいいことに情けなくも安堵しつつ
オレは帰り支度をしていた。
「水谷」
花井の声に顔を上げる。
「お迎え来てんぞ」
ドアのところに栄口の姿を認めて、胸が苦しくなった。
マジでマジで、涙出そうになってしまった。
ほんとはオレが追いかけなきゃいけなかったのに。
今だって、逃げようとしていた。
7組には顔出しにくかったと思うのに、
それでも、来てくれた。
来てくれて、ありがとう。
「ほら」
花井が何かを投げてきた。
受け取ったそれは、部室の鍵だった。
その鍵の意味を理解する。
「ちゃんと戸締り確認して、戻しといてくれよな」
「…はないー」








雨はまだ、止む気配を見せなかった。






部室に向かうオレと栄口の間を、雨の音が落ちる。
落ちる。
落ちる、落ちて。
何かの調べのように響くのだ。
意識の何処か、遠いところで。
2人のわだかまりを溶かすように、優しく響くのだ。





「ごめん」と部室に入るなり、謝ったのは栄口だった。
「ずるいのはオレの方だね、ごめん。試すようなマネした。
ほんとはこんなに余裕がないの、水谷のせいじゃないんだけど」
「…オレ、うれしかったよ」
オレは笑顔で答える。これはほんとうの気持ち。
「はあ?なんでだよっ」
栄口は眉根を寄せていた。納得がいかないようだった
「最初わかんなかったけどさ、もうわかったから」
「何言ってんだか、わけわかんないよ」
「わかんない?」
「……」
「栄口がほんとうの気持ちぶつけてくれたから
オレはうれしかったんだよ」
「…バカっ」
栄口はすごくすごく赤い顔をして、上目遣いにオレを睨んでそう言った。
それでも気持ち読み取れて、オレはうれしくなった。
近づいて栄口の肩に腕をまわして、ぎゅうっと抱き締める。
抵抗しないから、調子にのって栄口の首筋にひとつキスを落とした。
ああ、好きだなあと思う。
栄口は、笑顔に逃げなくなった。それだけでも、大きな進歩だった。
「ありがとう、栄口」
うれしくて、うれしくて笑った。
ほんとうは、栄口が無理さえしていなければ、それでいいんだよ。
笑いたければ笑えばいいし、泣きたければ泣いていいし
今日みたいに怒っていてもいいんだ。




いつでも誰にでも笑顔の栄口。
でもオレの前では、泣いたり怒ったり、笑ったり。
ほんとうの気持ち、いつでも見せてよ。
そんな風に、栄口の特別になりたかったんだ。





オレたちはきっとお互いに知っていた。
似たもの同士ってこと。
質は違うが笑顔を振りまくことは上手で。
泣きたい気持ちはたくさん持ってて
それは上手に隠せてて。
その隠し方があんまり上手くてお互いが不満で
曝け出していいものかどうかわからずに
お互いに不安で。








でもオレは、どこまで自分の気持ち、
言葉にせずに笑うことで誤魔化せるだろう。
自分の今のこの笑顔は確かに、ほんとうなのだけど。
「好き」と言ったら、何かが壊れてしまいそうで。







信じたいんだよ。
ほんとうだよ。
その先があるって。





だけどだけどだけど。
オレは怖がってる。





怖くて、
どうしてもあと1歩が踏み出せない。









…オレはずるい。



とんでもなく
ずるいなあと思った。



















笑顔に逃げるのは容易い。
その裏にあるほんとうの気持ち、
見つけて欲しい。

好きだから。







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2006.7.1 up