その雨の降り始めを
ひたすらに
待ち焦がれていた



五月雨(さつきあめ)の影は
ふたりの世界に
いつまでも降っていた












『五月雨の影』










このところずっと、雨ばかりが降っていた。



梅雨入りしたのはいいのだが、こう雨の日が多いと
グラウンドでの練習も思うようにはできなくなっている。
室内練習だけだとさすがにやることが限られてきて
今日もいつもよりは早く練習を切り上げることとなった。





今日も朝から、雨ばかりが降っている。



まとわりつく湿気のべたつく感触と、
厚い雲で塞がれた空に、不快感を花井はずっと感じていた。



何処か遠くもない近くもない場所で雷が鳴っている。















夜に向かう時間、野球部の部室のドアは、
花井の背のその後方でゆっくりと閉じられた。
帰ろうとした田島は、花井によって再び部室に押し込まれて、
だからなのか不機嫌そうな顔つきをしている。
もう他のみんなは帰った後で、部室には2人きりだった。
「約束だかんな、田島。いい加減諦めろ」
「花井、外、雨降ってんだけど、こんな日にかよ」
「こんな日だからだよ。練習早く終わったじゃねーか」
花井はじり、と、田島に歩み寄った。
「もう待てねェからな…」





「なー花井」
「なんだよ」
「エロ本は何冊まで置いてていい?」
「だ、か、ら、部活にいらねーもんは全部持って帰れ!!」
片付ける片付けると約束しながらも、
一向に減らない部室にある田島の私物を
今日こそは本人に持って帰らせようと花井は思っていた。
「ちぇー」
「カバン、教科書は置き勉してんだからいろいろ入るだろ?
入んねぇ時のために紙袋とかも持って来てるし」
「はーなーいー」
「…ちゃんと手伝ってやっから。家まで持って帰んのも。
今日は歩きだろ?」
「じゃ、やる」
田島はしぶしぶと動き出した。





しばらくは2人とも黙って、
ロッカーやら部室の隅の片付けを進めていた。
カバンに何でも押し込んでいる田島の傍に座り、花井は溜息をつく。
分別せずに詰め込むだけだったので、
そこまで時間はかからなかった。
「お前、こんな詰め込んで帰ってからどうすんだ」
ちゃんとカバンから出すんだろーな、と、田島に問うてみる。
「部屋にぶちまける」
「おい」
「それとも、花井、その後まで手伝ってくれんの?」
「お前ってヤツは…」






窓の外が一瞬だけ光る。
花井は思わず窓のほうを見た。
その光のせいで
降っている雨の影さえもが見えるような気がした。
少しの時間を置いて、雷の音。
タイムラグが短くなってきている。
だんだんこちらに近づいてきているようだ。






「花井」
「ん?」
突然田島は立ち上がり、窓の外を見て、言った。
「オレ、お日様の下で思いっきり野球やりてェ…」
「おお、そうだな」
「雨ばっかは、ヤだなあ」
項垂れている田島は、えらく元気がなさそうだった。
花井も立ち上がる。





野球をしている時の田島は、まるで野球の神様が
彼の存在を愛でているかのように、
いつもひとつ段差の高い処に居て
その高い処から自分とは違うものを見ているようで
花井を落ち着かない気分にさせている。
なのに今、目の前にいる田島は、
とても近くに居るように感じていた。





花井はぽんぽんと軽く田島の頭を叩く。
ああ、逃げない。
いつも田島は突然花井の傍にやって来て、
しがみついて、あっという間に去っていく。
「もっとずっと傍にいたい」と言われながらも
その実、田島は花井の傍におとなしく居ることはなく、
自分の思うがままにあちこち飛んでいってしまう。






掴まえたい、と思った。
思ったときには手を伸ばしていた。






光る、光る、窓の外。
「はない」と呼んだ田島の小さな声は、
光を追って鳴る雷の音にかき消された。








田島を体全体で包み込むようにぎゅっと抱き締める。
背も低めで細い田島は、花井の腕の中に納まっていた。
田島からは、忘れかけていた太陽の匂いがするような気がする。
梅雨の来訪からなのか
いつしか太陽が遠くなっていた。
明日も昇るのか、もうわからなくなっていた。
雲に塞がれた空ばかり、見続けると悲しくなった。




「ど、どうしたんだよ」
「……」
「…っ、はない。くるし…」
身じろぎする田島に、抑えた声で花井は言った。
「ちょっと黙ってろ」
田島は黙った。ぴくりとも動かなくなった。
音は、降り続ける雨と頭上から落ちてくる雷。
上手くできなくなっているお互いの呼吸も、熱を持ちぼやける思考も
鳴り響いているはずの鼓動も、その全部が気にならなくなるほどに
世界の高いところから、音が降っていた。
時間も雨と共に流れ落ちていった。






「田島、わり、…驚かせたな」
田島はすごく驚いた表情をしていて、
花井が体を離しても、しばらくは動かなかった。
「……痛ェ。なんでだろ」
そう言葉を落としたまま、動かなかった。
衝動のままに抱き締めてしまったので
腕に力を入れすぎたのかもしれない。
花井も田島にそれ以上何も言えなかった。
言うべき言葉を何も持たなかった。
花井は釈明すらもできなかった。







「オレ…帰る」
田島はそう言って、カバンを抱え、紙袋を持った。
「あ、ああ」
「1人で帰れっから、荷物、ちゃんと持って帰っから」
「大丈夫なのか?雨まだ降ってンぞ」
「さっきよりは音しなくなってるみてーだし。大丈夫」
二人の隙間を雨の影が切っていく。
見え隠れする不安もその全部が影になっていく。
「じゃな、花井。また明日」
それでも笑顔で田島は言った。
「おう」
「晴れるといいな、明日はさ」





田島が部室を出て行った後も
花井はそこに立ち尽くしていた。
雷はもう頭上を通り過ぎて、
何処かへいってしまったようだった。
音も光も無くなって、
雨の影も見えなくなってしまっていた。
田島を抱き締めた、手の、腕の感覚だけが
まだ花井の中にそのまま残っていた。





















この時はまだ気がついていなかった。
花井は本当に何にも気がついていなかった。
自分の気持ちにも、
田島がこの時から抱え始めた感情にも。
次の日からは、今日のことが何もなかったように
また日常に戻ってしまったので。
田島の態度も変わらないように見えたので。
















ただ思い返せば
きっかけは確かに、ここに在ったのだ。



















そして、恋に落ちる。








「五月雨(さつきあめ)」は、陰暦5月頃の雨のこと。
梅雨の長雨、五月雨(さみだれ)と同意。






BGM : KOKIA『私の太陽』
(月篠にとって青空シリーズの
ハナタジのテーマソングです)





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2006.6.28 up