その雨の降り始めを
ひたすらに
待ち焦がれていた












『その雨の降り始め』










雨が降りそうで、なかなか降らない。









すでに暦は梅雨の時期を迎えていて、大気中に沈殿している湿気と
それでも夏を迎えて上がっていく気温に不快さは増すばかりである。
ただでさえ、学校というところは人が多くて、
貴重な睡眠時間であるはずの昼休みに、その人ごみを掻き分けて、
校舎内を何駆けまわってんだろうと泉は思っていた。





階段を駆け上がり、1組でやっと三橋を見つけた。
すぐさま携帯を取り出し、浜田に電話をする。
『ほい、こちら浜田。見つかった?』
「三橋、1組!このまま捕獲する。そっち、田島は?」
『まだ見つかんねーっ』
「役立たずっ。意地でも見つけろよっ!
田島本人よりあいつが持ってるもんのほうが大事だかんな」
『田島は見つけたら捕獲?それともブツのみ引き取る?』
「捕獲!捕獲したら呼び出し2コールな。
どうしても見つかんない時は長めに鳴らして」
『ねー、泉。今日うち来る?』
何関係ねー話してんだ、と、その問いには答えず通話を終わらせる。
携帯を閉じて顔を上げると、目の前に栄口が笑顔で立っていた。





「どうしたの?大捕り物中?」
栄口からブリックパックのヨーグルトを差し出されて、
泉も笑顔で受け取る。
走り回ってすごく喉が渇いていた。有難い。
「そう、三橋を捕獲しに来た」
1組の教室の中をのぞくと、三橋は巣山と一緒にいた。
ボールを使って変化球の握り方の話をしているらしい。
三橋がすごくいい笑顔をしていたので、
捕獲はこのヨーグルトを飲み終わるまで待ってやろうと泉は思った。
「ありがと、これ」
礼を言って、ストローを差し込む。冷えてて美味しい。
自分用に買ってきたのをわざわざくれたんだろうな。
「いえいえ、どういたしまして。ところでさ」
「うん」
「泉がここにいるってことは、やっぱり田島担当は浜田になっちゃったんだ」
ヨーグルトが喉につかえて、泉は咳き込んだ。
「なんでそんなこと知ってんだよ。誰かから聞いたのか?」
「え、と、あれ?花井だったかな?」
「ああ、田島に振りまわされてる2人だからな。そういう話もすっかもな」
「泉はずっと田島の手綱を引っ張ってきたのにね。
もしかして、三橋を浜田担当にするのはイヤなのかな」
泉は栄口の顔を見遣った。
いつもと変わらない笑顔だった。
でもこの栄口という人間は、いろんなことに
もうそれは細かいことに気が付くのだ。
図星を差されて、押し黙る。
認めてしまうのは、くやしい。
「そんなことねェよ」
「そう?」








浜田が三橋の幼馴染だと分かったのは、夏体の抽選会の後だった。
三橋が「ハマちゃん」と呼ぶ。
浜田はそれを見て、うれしそうに笑う。
ギシギシ荘にいた頃の泉の知らない浜田を、三橋は知っている。
まだ肘の痛みなんかもなくて、楽しく野球をしていたころの浜田を。





羨ましい…というのだろうか。
それとも、寂しいという感情を抱えてしまったのだろうか。
泉は知らないのだ。
「ハマちゃん」と呼ばれていた浜田のことは知らないのだ。
泉と浜田との関係は、決して特別なものではないのだと
思い知らされたような気がして、また笑顔が遠くなった。
笑い方を忘れたわけではないのだけど。
ほんとうは、素直に浜田の前で笑えたら、それが一番いいのだけれど。





雨が降らない。
湿気だけが、沈殿して沈殿して、鬱陶しさを増していく。
最初の一滴が落ちたなら、それが引き金になって雨は降って
もう少し気温も下がって、体は楽になれるだろうに。





泉は雨の降り始めを待っていた。
その最初の一滴を待ち焦がれて。








自分の笑顔もきっとそんなものじゃないかと思う。
欲しいのはきっかけだった。
一度浜田の前で笑ってしまえれば、雨と同じくそれは引き金になって
たぶんずっと笑うことができるに違いないのだ。





もう少し、心を楽にしたかった。
楽になることで、
引き返せなくなってしまうことも絶対に出てくるだろうけど。
それでも。





待ち焦がれていたのだ。
泉は。














ぴんぴろりん♪
ぴんぴろりん♪





泉の携帯から浜田専用の着メロが鳴り響く。
コールは2回。田島の捕獲は成功したらしい。
ちょっと変わったメロディなので、
栄口も驚いたのか泉の携帯を見つめている。
「田島、捕まったみたいなんで、三橋も連れて行くから」
「田島は何を持って逃げてんの?」
栄口がそう問うてきた。
「…さっきの電話、聞いてたのか」
「何言ってんの、聞こえたんだよ」
はあ、と溜息をひとつだけついて泉は言う。
「5時間目の数学のさ、こないだあった小テストが返ってきたんだよ」
「うん」
「てか、まだちゃんとは返ってきてねーんだけど」
「はあ?」
「先生が何思ったのか、職員室の前を通りかかった田島に」
「預けたのか?そのテスト!数学ってあれじゃないの?例のやつ!
1組でも追試組が多数でたよ」
「そう!それよりそのテスト、
…そのままどっか置きっぱなしになってそうで、そっちがやばい」
「やばいの?」
「前科あり」
2人して、はああと溜息をもひとつついた。
田島なら、有り得る。





「そりゃ大変だね、三橋なら、昼休み終わるまで1組で預かっとくけど?」
「うーん、どうすっかなー」
「いつも泉は大変だからさ、こんな時くらい甘えてよね。
昼休みが終わる5分前には9組に連れて行くよ」
見ると、三橋は楽しそうにまだ巣山と話している最中だったので
居場所もはっきりしたんだし、いいかなと泉も思った。
「…じゃ、三橋をよろしく。ありがと。ヨーグルトも美味かった」
手を振って、その場を離れようとした泉だったが、
栄口に突然振っていた手を掴まれてしまった。
「…あの、さ、泉」
「な、何?」
栄口の真面目な顔つきに、泉は驚く。
「あの…なんか、相談したいこととか、愚痴とかあったらオレに話してよ」
「栄口」
「だって、独りでいろいろ抱えてそうだったからさ」
「そんなこと…ない…」
「あった時でいいから」
笑顔じゃない表情の、栄口の真剣な眼差しに泉は黙って頷いた。
それを見て、栄口は再び笑顔になる。
その笑顔に見送られて、1組を後にした。
















階段を降りながら携帯を開いて、浜田に電話をかける。
「三橋、1組に預けてきたから。ついでに栄口にヨーグルトもらって飲んでた」
『えーっ、そりゃずるいよ、泉ぃ。こっち大変だよー』
「今日練習終わった後、浜田んトコちゃんと行くからぐだぐだ言うな」
『お、来てくれんの。うれしーっ』
「疲れて、オレ寝ちゃっても知んねーぞ」
『泊まってけばいーじゃん、弟も喜ぶし…。おわっ』
「どしたっ?」
『た、田島ーっ!』
やばい様子に、泉は携帯を閉じ、
慌てて9組に向かって駆け出した。










ずっと、待ち焦がれていたのだ。
泉は。







その雨の降り始めを。






雨を、雨を、
雨と、そして。


















時系列ではアベミハ『安眠』の前なので
まだ三橋は昼休みに
阿部のところに通ってはいません。


泉が笑うきっかけの話は
また書ければいいなと思っています。
きっかけなんて、ちょっとしたことなのかも
しれません。


降り始めの最初の一滴(ひとしずく)という表現は
なかなかに好きで、よく使います。







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2006.6.24 up