ここは
特別の場所












『安眠』










夏の空、その存在を主張している入道雲は
教室の窓から見える風景の中に広がっていた。








そんな日の昼休み、阿部が窓際の自分の席で転寝をしていたところに
泉が三橋を連れてやってきた。
前の席で音楽を聴いていた水谷が「あんれ、どしたん?」と
2人に声をかけたので阿部は目を覚まし、体を起こした。





「水谷、席立って」
泉はそう言って水谷を席から追い出し、そこに三橋を座らせる。
「阿部、三橋をよろしく。…水谷はちょっと。話あんだ」
「え、オレ?」
「そうお前」
あれよあれよという間に泉は水谷の手を引いて、
教室の外に出てしまった。
三橋は椅子の背を壁側に向け、阿部の方を向いて座りなおした。
そして阿部を見て、にっこり笑う。
「あべ、くん」
こいつのお守りをしろってことなのかな、と阿部は考える。
窓から入ってくる風が、三橋の色素が薄めの柔らかな髪を
ゆらりゆらりと揺らしている。
「あ、あのね…あ の、あべ、くん」
「どした?」
「あ、の」
「…怒んねェからさ、落ち着いて言ってみな」
三橋はそれ以上は何も言わず、机の上の阿部の左拳を両手で包む。
困ったようなそんな表情でそれでも笑顔を見せて、
手はそのままに机に突っ伏して眠ってしまった。
「……って、おいっ。三橋?」
すうすうと気持ちよさそうに眠っている。
阿部はその寝顔をじっと見つめていた。
睫毛の微かな揺れを、時折動く唇を。
三橋に触れたいと素直に思ったのだが、ここは教室だと思い直す。
ちょっとだけならいいかなと余っていた右手の指で、
三橋の髪に優しく触れた。







三橋に「好きだ」と言われて、阿部も「オレも好きだよ」と返した。
あの夜は細い月が出ていた。
2人の気持ちはそれ以上にももちろんそれ以下にも変わることがなく、
ただ穏やかに時間だけが過ぎていった。
野球をする時間と共に過ぎていってしまったのだ。







まだまだ昼休みの時間は残っている。
あまりの心地良さにもう一度寝ちまおうかと思ったところに、
水谷が戻ってきた。
1人だった。泉はいなかった。






「三橋はそのまま寝せてていーから。…ちょっとここの席のイス借りるよ〜」
水谷はそう言いながら、阿部の横の席からイスを持ってきて腰をかけた。
「泉はどうしたんだ」
「帰ったよ。泉とは話ついた。これから毎日昼休みに三橋、
阿部んトコに来ることになったから。いーだろ?」
「……あぁ?」
「それがね、今まで昼休み9組の野球組はさ、ばったり寝ちゃうことが
多かったらしいんだけど、ここしばらく三橋がどうもずっと眠れてなくって、
すごく浜田が心配してっから泉が7組に連れてきた、というわけ。
毎日三橋はここ来ればいいと泉に持ちかけたのはオレだけどね」
あっさりとした態度の水谷にちょっとばかり苛立ちを覚える。
眠れてないって…何かあったんだろうかと気にかかる。
今、阿部の目の前で三橋はちゃんと眠っているのだけれど。





「その前に!何でさっきその話、泉はオレじゃなくお前にしてんだよ」
「し・ず・か・に。せっかく三橋寝てんのに」
「……おい」
「ここで三橋が眠れてないって話したら、阿部お前直接本人に問い詰めそうだかんな。
オレに話してワンクッション置いたんだろ?」
なるほど、と思う。
確かに「いつから」とか「なんで」とか、三橋に言って問い詰めてしまいそうだ。
「お前は聞いてんのか?三橋がいつから、なんで、眠れてないのか」
そう問うと、水谷はふぅと大きく息を吐いた。
「いつからだ」
「……」
水谷は阿部を黙って見つめている。
らしくなく真面目な顔をしていて、少し複雑な気分になる。
「阿部はさ」
「なんだよ」
「阿部は、オレのこと見くびってるだろ?」
「…?」
否定も肯定もできなかった。
三橋の話をしていたはずなのに、何故突然水谷の話になるのかが分からなかった。
「オレが…何にも気づいてないと思ってるだろ?」
そう言われて阿部の意識の何処かがすっと冷えていった。





「お前…何…」
「…知ってるよ。三橋の気持ちも、たぶん阿部のも」
声を小さくして、水谷は言うのだ。
2人が好きあっているのを知っているのだと。
「何で知ってる?もしかして泉にもばれてるのか」
「知ってんのは今んとこオレだけだと思うけど。何で、って…それは秘密」
「水谷ぃ…」
「三橋との大事な秘密なの。
三橋から阿部に言うのはいいけどオレからは言えないの。
まあ、だからかどうかは分かんないけど、その辺知ってるからこそ、
三橋が眠れなくなったのがいつからなのかなんでなのかが分かるよ。
阿部も…分かるだろ?いろいろ不安も抱えてたんだと思うよ」
秘密というのが気になるが、それは三橋に直接訊いてみよう。
昼休みに眠れなくなったのは、
三橋が自分の気持ちを告白した、あの頃からなのか。
阿部のことを思って不安になって…眠れないというのだろうか。
春の終わり、合宿中の三橋のことを思い出す。夜はちゃんと眠れていればいいのだが。
「ここにいると阿部の顔が見れるから安眠できるんだと思うよ、三橋は」
水谷もそして阿部も、気持ちよさそうに眠っている三橋を見つめる。
何がそんなに不安なのだろうかと…そう思った。






「ほんとのところはどうなのよ。…付き合ってんの?」
にへらと笑いながらそんな問いを水谷は投げかけてくる。
「そういうのが、よく分かんねェんだよ。
お互いの気持ちがあって…それだけじゃダメなのか?」
「うわぁ……そりゃ難しい質問だね。簡単に答えらんないな」
「水谷お前そういうの経験豊富じゃねェのかよ」
「下手にあってもね。足枷になるばっかでさ…てか、オレの話はいーじゃんっ」
ひどく慌てた様子の水谷を見て、少し溜飲が下がる。
栄口に…本気なのか?とは敢えて訊かずにおいていた。
「ま、そゆことで。三橋をよろしく。オレ花井にも説明してくっから」
水谷は立ち上がり、イスを戻して花井の席のほうにかけていった。
教室の時計を見ると、予鈴まであと5分というところ。
「三橋」
三橋の体を揺すって、声をかけた。












起きた三橋は阿部を見て、もうすでに涙目だった。
阿部の左手を包んでいる三橋のその両手に力が込められる。
「ごめ んなさい…」
「泣くなよ謝るなよ。毎日昼休みここ来て寝てていいからさ」
大きい瞳から涙がぶわっと溢れ出す。
「め、迷惑だった、ら…」
「迷惑なんかじゃない」
「あべ…くん」
「オレもお前といれてうれしいから、いいんだよ」







三橋はその目に涙を溜めたまま、それでもすごく幸せそうに笑った。
それを見て阿部は、三橋のこの笑顔を大切にしたいと思っていた。























やっと『安眠』を書くことができたので言えるのですが
拍手小話の『Room107』は「青空シリーズ」のパロディだったりします。
どうして昼休みに三橋が阿部のところで眠っているのか
…こういう設定があったのですよ(笑)
青空シリーズの裏設定(たくさんある)や小ネタ使って
『Room107』で遊んだりしています。






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2006.5.7 up