この手が
今も野球をしている











『眠り姫』










携帯に電話をかけても出なかった。






夏に近づいて行く5月の夜だった。
オレ、浜田はその夜に、借りていた数学のノートを持って
目的地まで5分の距離をてくてくと歩く。








呼び鈴なんか鳴らさない。
「ちーす」と一声かけて上がり込む。
ここは勝手知ったる泉ん家。
「孝介くんいますか〜」
「あら良郎くん、孝介なら上にいるわよ」
おばさんは明るい声でそう答えた。
家にいて、電話に出ないということは。





階段を上がり二階の泉の部屋、そのドアを軽くノックする。
返事はなし、ああやはり。たぶん思ったとおり。
こっそりとドアを開けると、ベッドで眠っている泉の姿があった。
野球部で頑張ってるし、お疲れなんだろう。
それは十分に分かっていたが、この数学のノートは返しておかないと
泉にどんだけ怒られるか分かんないので、ここまでやってきた。
幼馴染である気安さと家が近いという便利さで
春になり同じ学年になってからはお互いの部屋を
行き来することも多くなっていた。



こりゃ熟睡してんな、と思いながらベッドの傍に寄る。
上から泉の寝顔を見下ろした。
小学生の時のまんまだな。全然変わんない。
「いーずみ」
声を泉に向かって落としても、起きるどころか動きもしなかった。
小さな寝息をたてている。
ああ、ほんと可愛い。



そのままベッドの端に膝立ちになり泉の体の脇に手をつき、
オレは熟睡中の顔を覗き込む。
ゆっくりと自分の顔を下ろしていき…
二人の唇の距離があと数センチというところで動きを止める。
「こうすけ」と声には出さないで、息だけでその名を呼んだ。









起きちゃうだろうなぁ、キスなんかしたら。
お姫サマだもんな。





口が悪いし、手も早いけど。
そんなのオレだけになのかもしれないけどさ。
だいじなだいじなお姫サマだもんね。









ふ、と笑って、オレは近づいた距離をまた離す。








昔みたいに笑ってくんねェかなあ。







同じ学年にオレが下りてきて、その頃から
泉は何故か自分に対してあまり笑わなくなった。
笑わなくたってすごく可愛いのだけど、昔の笑顔の記憶は未だ鮮明で。
今でもあの笑顔を取り戻したいと思っていた。




人生というものにオレはもう多くのことを望んではいなかった。
いろんなことを今までに諦めてきた。
野球もそのうちのひとつで。
そんな自分にもういい加減慣れていた。





でも泉の笑顔だけは、諦めたくはなくて。
もっともっとたくさんの笑顔を見たくて。





目を細めて泉の寝顔を見つめる。
ベッドの端に投げ出されている右手を、そっと手にとった。





この手が、今も野球をしている。
オレがもうできなくなってしまった野球を。



オレはそのまま泉の指に自分の指をかけ持ち上げて
そして、その甲にそっとキスをした。













ノートを枕元において、立ち上がる。
あんまり無防備に寝てられるとこちらが辛くなる。
「ん」と微かに漏らした泉の甘めの息に気持ち持っていかれそうになる。
そんな可愛いと襲っちゃうぞと冗談にならない冗談を
声には出さず投げかけて、部屋を出ようとドアノブに手をかけた。





「浜田…?」
声に動きを止め、びっくりして振り返った。
泉が寝起きの、半分目を開きかけたような状態でこちらを見ている。
心臓のリズムがそのテンポを速めた。

















唇にキスしないと起きないんじゃなかったっけ眠り姫。


















まだ応援団の結成前ですね。
『直球』という話にこの『眠り姫』は
つながっていきます。
『夜待ち』では笑顔の泉。
今はまだそこまでの二人を書いていってます。










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2006.4.22 up