それはまるであぶくのように











『さみしい』










言葉に囚われる、ということがある。








ぷくん。



あぶくのように意識の何処かで
浮き出してくる言葉はあったのだけれども、
栄口はそれに気づかない振りをしていた。
決して自分の気持ちじゃない、とそう思っていたので。





その言葉は突然に
すう…と血の気が引く感覚とともに、
いつもやってくる。












「さっかえぐち」
「…水谷」
「ぼーっとしてるけど、大丈夫?」
夏である。
日の出とともに朝練こなして授業も受けて、
真っ暗の真っ暗に世界が色を変えた後も練習に練習を重ねて。
帰るころにはさすがにばてばてである。
栄口が自転車をのろのろと動かしていると、水谷が声をかけてきた。
水谷の自分に向けられる笑顔はいつも優しくて、
それだけで心が癒されていくようだ。



なので、笑顔を返そうとしたその瞬間に
貧血にも似た感覚と
浮かび上がってきたひとつの言葉に愕然とする。



その言葉はいつも音として
突然に上がってくる。
鐘のように脳裏に鳴り響いている。








     さみしい







     さみしいよ








あぶくのように
浮かんでは消え、浮かんでは消える。






固まってしまった栄口に水谷は慌てた様子だった。
「顔真っ青だ、ほんと大丈夫?具合悪い?」
「いや、体は平気だから…大丈夫だから」
「じゃあ悩み事でもあるとか」
「たいしたことじゃない」
ふいに言って、しまった、と思ったが遅かった。
水谷は唇を引き結んで、こちらをじっと見ている。
「たいしたことじゃないって…なに?気になっちゃうよ」
視線は絡まって逸らせない。







けれど。
さみしいという言葉が音が浮かぶんだよ…とは言えなかった。
浮かぶ言葉は、栄口の意識を揺らして
平穏を与えてはくれない。
ここ数年、今までに十数回にはなるだろうか。
いつまでも、慣れない。



まるであぶくのように。






何故さみしいのだろう。
浮かぶ言葉はそれなのだろう。
今の自分の状況は幸せで。
辛いことが全然なかったわけじゃないけど
ちゃんと今まで乗り越えてきた。



家族は優しく仲も良く、大好きな野球は出来て
仲間も揃って夏体に向かって突き進んでいて
水谷の優しい笑顔も目の前にあるのに。






なのに、何故。







栄口はそれでも笑顔で水谷に向き合った。
「頼むから心配しないでくれよ。たいした悩みじゃないし」
「だからなに」
「朝から晩まで練習練習でさ。家族に家事まかせっきりで
申し訳ないな〜とかは思ってるけど」
「え」
「うち、母親いないから」
嘘はついていない。
それも栄口が抱えているもののひとつではあった。
ただそれで悩んでこの状態になったわけでは決してなく
そういう意味では、水谷に対してのこの回答は
真実ではないものになってしまっているのかもしれなかった。









     さみしい









浮かぶのは言葉だけ。



その言葉を生み出すこころは
何処にあるのだろう。




さみしくなんかないのに
そんなことなんか決してないのに。







「ごめん、オレ…何にも知らなくて」
力なく俯く水谷を見ると、こちらも辛くなる。
笑っていてほしいのだけど。
幸せを少しでも感じさせて…ほしいのだけど。
「知らなくて当然だよ、言ってなかったから」
「栄口」
「大丈夫だよ。心配かけてごめん」
「…こっちこそごめん」
「帰ろ、水谷。遅くなると家の人が心配するから」
いつものように学校を出て、笑顔で別れる。
いつものように…笑えてたかな。
水谷はさすがに強張った笑顔だったけれど。









     さみしいよ









栄口は星がいっぱいの夏の夜空を仰ぎ見た。








もしも。



もしももしも。





この浮かびあがる言葉のことを話したら
水谷はなんと言うだろうか。



真面目に話を聞いてくれるだろうか。
「そんなのおかしいよ」と
笑わないでいてくれるだろうか。



大丈夫だよと、
傍にいるよといってくれるだろうか。







栄口には分からなかった。
答えなんか何処を探しても見つからなかった。



そして
あぶくのような言葉も
いつの間にかまた無くなっていた。










だからもう何にも言わないでおく。


















だって。
だってさみしくなんかないのだから。




















わきあがることばは
いまもわたしがもっているもの
どうしてなんだろう
しあわせなはずなのに


タスケテと
もうずっとながいあいだ
ことばがうかんでは
きえていくのだ











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2006.4.21 up