あの月は
ずっと心の拠りどころだった













『ひとりぼっちの月』










突然に夏は近づいて
初夏、と呼べるそんな季節だった。





月はずっとひとりぼっちだった。
少なくとも三橋はそう思っていた。
夜にひとつきり浮かぶ月。
星たちの姿は見えても、その存在は遠く
求めても求めても実際の距離は離れすぎてて近づけない。
孤独感はどこまでも月に自分を重ねる三橋を追いかけてきて
その寂しさに視界が涙で歪む。





だが阿部は言ったのだ。
あの春の夜に言ったのだ。
月はひとりぼっちじゃないと。
地球と引き合って、太陽の光を受けてその存在を
明らかにしているのだと。












「三橋っ!」
今日も阿部は怒っている。
三橋にはその理由がよくわからないままだが
阿部が自分に向かって怒ってることをまずは
精一杯理解しようとしている。





ただ、その理解をする前に体が逃げてしまう。
阿部の荒げた声にびくりと震えるのは
すでに何かの反射になっているかのようだ。





「ご ごめんな、さいっ」
練習も終わり、二人だけになっていた部室から
転げるようにして三橋は出る。
もう陽はとうに落ちてしまっていて
藍色に染め上げられた西の空には
三日月が姿を見せていた。








その月はあの夜から
三橋にとって心の拠りどころだった。
どの夜でも必ず月を探してしまう。
見つからない日はやはり不安ばかり抱えて
けれど心に焼き付けていた月の姿を思って
涙を拭って、また前を見る。





今日はちゃんと月が
三橋の視界に存在していて、安堵した。
自転車小屋に向かってとぼとぼと歩く。








だいじょうぶ
月はいる
ちゃんと地球とひきあってる



地球が
離さないでいてくれる








安堵して、それ故に涙が出た。
途中の道端にしゃがみこむ。
小さくなって小さくなって、三橋は呟く。
「あべくん…すき」





いつから好きだったのかも
この好きがどんなものなのかも分からない。
ただ三橋の中にこの大事な気持ちは存在していて
もうそれをどうしようもなかった。
溢れ出る気持ちを少しでも声にかえて
空気の中に溶かし出すことだけでも
今の三橋にとっては精一杯だった。





本当は阿部自身をきちんと信じていくことが
大事なのかもしれない。
でもそれは今は難しく、あの夜の
阿部の言葉と月だけを辛うじて信じることができていた。









今日の月はとても細くて
涙でぼやけた目では見えにくい。
月を見たくて、信じたくて、
涙を袖で拭って立ち上がると目の前に阿部が立っていた。





悲しそうな目をしていた。
逃げたくなった。





…これ以上嫌われてしまうのは辛かった。
嫌われてしまうくらいなら、
いっそこの姿を消してしまいたいと思う。





「三橋」
両腕を掴まれ、動けなくなる。
阿部の顔は見れなかった。
背けた三橋の顔を阿部はじっと見つめている。
「…オレのこと、嫌いか?」
三橋は首をぶんぶんと振った。
そんなことはない。そんなことある筈がない。
「じゃあ、何でいっつも逃げてんだよ」
「あべく、ん 怒る…」
「怒ってねェけど。いや、今日のはお前が悪いんだろが」
「ほ、ほら、やっぱ 怒ってる、よ」
三橋はそれだけ言って震えだした。
湧き出す涙の熱を感じる。
真っ直ぐにこちらに向けられる視線が少し怖かった。
いつの時でも阿部の三橋に向ける視線は
真っ直ぐで真剣で、そんな阿部が三橋は好きなのだけど
なかなか同じようには向き合うことができなくて
それを言葉でも態度でも伝えることすらできなくて
すれ違っていくばかりの二人なのだった。










三橋の目からは涙が落ちていく。
その涙とともに想いが溢れ出て
堰き止められずに溢れ出て、
それは声になった。
言葉となって、外に出た。






「あべくん、すき」






「だいすき」








「三橋…お前…」
「ごめ んなさい…」





どうしよう、と思う。
言ってしまった。抑えられなかった。
ちゃんと自分の気持ち抑えて、阿部と付き合っていけば
これから先もバッテリーを組んでいけたかもしれない。
嫌われてしまうのが怖い。
嫌われてしまっても、それでも、
きっとマウンドを降りることはできなくて。
投げ続けるだろう自分がいて。
沈んでしまった過去の感情が
また少しずつ三橋の心に染み出してくる。





なんにも、変わってない。
このままじゃ、地球から見放されて
宇宙を彷徨う月になってしまいそうで。





掴まれていた腕にかかる力が緩んだのに気がついて
逃げ出してしまおうと阿部に背を向けた。
けれど逃げることなんかできなかった。
阿部に後ろから抱き締められたのだ。
「あべ…くん」
「逃げんな、コラ」
「…ごめ…っ」
嗚咽する声が、夜の空に響く。
「オレも…好きだから」
その声は三橋に優しく降ってきた。
三橋の唇は震えて、もう上手く言葉を出せなかった。
「言葉いっつも足んねェし、いろいろ上手くねェけど
それだけは信じてくれよ」
「嫌い…じゃ ない?」
「あ?今好きだって言ったばっかじゃねェか」
「すき」
「…何度も言わせんなよ。好きだよ」
「あべ くん、すき」
阿部からは何も返って来ず、
その代わりに自分を抱き締めている腕に力が込められた。
「う、うえぇ…」
「泣くなっ。どうしていいかわかんなくなっから」







声を上げて三橋は泣いた。
ただうれしかった。
他には何も考えられなかった。





阿部は自分を離さなかったのだ。



















夜の闇の中で
ひとりぽつんと浮かんでいても
星がひとつも見えていなくても、





月はもう
決してひとりぼっちではなかった。


















『お手をどうぞ』以前の話になります。





BGM : Every Little Thing 『azure moon』






back

2006.4.7 up