決めている



テメーは
何処までも連れて行く








呼び合う











流れるように世界に落ちた夕闇が
昼間の興奮を少し冷まして、
現実を、続く明日を見つめることを
取り戻させていた。





陽はとうに落ちていて、部室には
ヒル魔と姉崎まもりの二人しか残っていなかった。
いつものアメフト部室だった。
都大会の3位決定戦で盤戸スパイダーズを下して
関東大会への切符を手にし、クリスマスボウルへの夢を繋いだ
その日のことだった。









ヒル魔は部室内の定位置であるカウンター前に座り、
カジノテーブルに足を乗せてノートパソコンを無言で操っていた。
盤戸戦のデータ整理をしている。
データ整理は早ければ早いほど、頭の中の情報も整理できていい。
マネージャーで主務も兼任しているまもりは、
後片付けに追われていて、ばたばたと動きまわっていた。
試合後には特にこうして2人でいることが多くなっている。





「…ヒル魔くんは、まだ帰らないの?」
足を止めて、ヒル魔にそう問うてきた。
どういうつもりかとじっとまもりの顔を見つめていたが、
ふ、と息をひとつついて口を開いた。
「テメーが仕事してんのに、ひとり残して帰れっかよ」
まもりはその表情を輝かせて、にっこり笑った。
「じゃあ、後でわたしに時間を少し頂戴」
笑顔をこちらに向けたままで、そんなことを言う。
「あぁ?」
「話があるの」
それだけ言うと、ロッカールームのほうへまた駆けていった。






夕闇はいつの間にか、夜を連れて来てしまっていた。
それでも、まだ長い1日は終わりそうになかった。














時間があまりにもゆっくりと、
とろりとろりと流れているような気がする。
ヒル魔は待ちきれずに手を伸ばして、掴まえた。
ちょうどまもりが傍に来たから。その細い手首を。
頭で考えるより先に手が出てしまっていた。
「も、もうちょっと待って」
「…待てない」
「コーヒーを淹れるわ、その間だけ待って」
そう言ってヒル魔に笑いかける。
その笑顔に何故か苛立ちを覚えて、その感情に戸惑う。
なんで笑ってるんだと思う。
昼間の涙はまだ流れきってはしまわないまま、
まもりの心の何処かに沈殿しているはずだった。
気づいてないのか、隠しているのか。
それとも、何も見ない振りして笑顔を表情に載せているのか。
泣かせたいと、思ってしまった。





泣き顔を見てしまったら、もう抑えがきかないと
自分でも分かっているのに
それでもまもりの無理をした笑顔は見たくなかった。
「ヒル魔くん」
「……」
「離して」
じっと目を見つめられて、それ以上は何もできず
舌打ちの音と共に手首を離した。








いつもと変わらないコーヒーの香りと味に
ざわついていた気持ちがすっと落ち着いていく。
見渡せば視界に入るのはいつもの部室で。
まもりも、当たり前のようにその中に存在している。
見るとヒル魔の斜め前に座っていて、コーヒーに砂糖を入れている。





いつの間にこれが日常になってしまったのだろう。
1年前は栗田と2人きりで、部室もただ散らかっていて、
どこもかしこも、心さえもささくれ立っていた。
何がきっかけで、ここまで変わっていったのだろう。
出会った時のセナの走る姿がヒル魔の脳裏を掠める。
やはりあの「走り」との出会いが変革への始まりだったのか。





「ヒル魔くん」
真横で声がして、顔を向けるとまもりが立っていた。
「まずは、お疲れさま。そして、おめでとう」
「まだ終わってねぇ」
「うん、でも言わせて」
ヒル魔はテーブルの上に投げ出していた足を下ろして立ち上がった。
まもりを見下ろして、その赤みを増している頬に指を這わせた。
そしてまもりが口を再び開くのを待った。
「…ヒル魔くんはもちろん知ってたのよね。
セナがアイシールドくんだってこと」
「たりめーだ。俺が知らなくてどうする」
「ごめんなさい…」
まもりは腕を伸ばし、ヒル魔の背にそっとまわして抱きついてきた。
この女から触れてきたのは初めてで、ヒル魔は驚き、
でもうれしくなって、その顔に笑みを浮かべた。
「何にも気づかなくて、ごめんなさい」
「しょーがねぇな」
「何がしょうがないのよ」
「テメーはたぶんずっと何か違うもんを見ていた。いつも、そうだった」
「…よく、わからないわ」
「独りで、泣いてんじゃねぇ」
びく、と体を震わせたまもりを壊さないように、
そっと包み込むように抱き締めた。
このまま腕の中に閉じ込めておいてしまいたかった。





聖母は、今はもう泣いていなかった。
では、涙は何処に封印されているのだろう。





「今、ここで泣いてしまってもいいぞ」
ヒル魔のその言葉に弾かれるようにまもりは体を離した。
「…何、それ」
「俺にそう言ったのはテメーじゃねぇか」
西部戦の後にまもりの口から紡がれた「泣いてしまってもいいのよ」と
いうその言葉はヒル魔の意識の深いところに潜り込んでいた。
実際あの時は泣けなかったのだが、忘れられないほど
記憶の隅にしっかりと刻み込まれていた。
「わたし、泣かないわ。確かにアメフト選手として活躍しているセナに比べて
わたしは何をやってたんだろう…って不安になったけど。
でも目の前にいる誰かさんのおかげで、マネージャーや主務としても
頑張ってきた自分を認めることができたし…だからもう泣かないわ」
向けられたまもりの顔は強張っていて、声も掠れていた。
たぶん流すべき涙は、沈殿したままなのだ。
「確かにテメーはマネや主務としては十分に【使える女】だけどな。
それは認めてやる。だが泣きたい理由はひとつじゃねぇだろ」
「理由って…」
「糞チビが離れてしまったようで、それは寂しくはねぇのか」
ヒル魔のその一言にまもりは明らかに動揺していた。
唇が震えている。でも泣かない。
泣かせたい、とヒル魔は思う。
きっと泣いてしまったほうが、楽になるのだ。
逃げようとして後退ったまもりの両の手首を、ヒル魔は掴んで離さない。
「や、ちょっと…ヒル魔くん」
もう逃がさない。十分待った。
何処にも行かせない。
「離して」
「離さねぇ」








もう待たない



このまま
何処までも連れて行く














「目、閉じちまえ」
ヒル魔はまもりの耳元に顔を寄せ、囁くように言った。
「どうして?」
赤い顔をしたまもりから、強い口調で疑問符が投げかけられる。
「そういう反応が返ってくるとはな…」
予想外の言動をする女だと、つくづく思う。
「どうしてよ」
「キスする」
「…!」
「だからその青い目を閉じちまえ」
「ど、同意を求めてすらいないじゃないのっ」
「テメーの気持ちなんざ最初っからお見通しなんだよ」
両手首を掴まれながらも、ばたばたと暴れるまもりに向かって
ヒル魔はゆっくりと彼女の名を呼んだ。
「…姉崎」
震えるまもりの、その瞳が見る見るうちに潤んでくる。
「ヒル魔くん、ずるい!こんな時に…」
ヒル魔は体を捻って、まもりの体をカウンターに押し付けると
もう一度「姉崎」と呼んで、その顔を近づけた。
まもりの瞼が震えて揺れて、そして閉じられる。





涙は一粒零れて、
部室の灯りで宝石のように光っていた。
















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マリアシリーズの中で
一番書きたかった話です。
わたしの中で
過去と現在と未来を繋ぐ1作です。




2006/6/22 UP



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