空だけが。


















雨待ちの空だった。



太陽の存在はその光の弱さで分かるように
雲に隠れてしまって見えなくなっていた。



雨の匂いは先ほどより強くなっていて
もうその粒が落ちてくるのを待つだけになっていた。





ぱらり。



わたしが泥門高校に着いた時には、もう雨が
ぱらりぱらりと落ちていた。
眉根を寄せて、暗くなった空を見る。
ひどく降らなければいいけどと思う。
傘は持っているので、濡れて帰る心配はないけれども。
やはり雨の世界はいつも物憂げで
彼にかける言葉も失ってしまいそうになる。





視界が曇る。軽い音が空全体から聞こえる。
雨は本格的に降り出したようだ。











見慣れた部室のドアを、それでも今日はそろりと開けた。
ヒル魔くんはノートパソコンに向かいながら、
こちらは見ずに片手を上げた。
テーブルの上に雁屋の箱がある。
中を見ると大好きなシュークリームが入っている。
「ヒル魔くん、これ…」
「糞デブがそれテメーにって置いてったぞ。30分くらい前まではいたがな」
わたしを呼び出したのはこれが理由だったのだろうか。
「…そう。ありがとう」
「俺に言うな。糞デブにちゃんと言え」
「うん、そうするわ。ここで食べていい?コーヒー淹れるわよ」
「好きにしろ」
「ヒル魔くんは…何してたの?ずっとパソコン?」
「めんどくせえ奴のビデオを二人で見てたんだよ」
「…?」
「テメーも後で見とけ、糞赤目の試合」
ああ、と思う。
盤戸スパイダーズの赤羽くんのことを指しているのだと、やっと気がついた。
1週間後の盤戸戦の準備をすぐに始めていたのだ。
ちゃんといつでも先を見てる。
そういう人だってわたしは知ってる。





でも。
それでも。



もし嫌われてしまったとしても
それでも言いたいことはあって。













雨の音はかなり大きくなっていた。
夏の夕立のように、ひどく建物を打ちつけている。
音が、音がひどく響いて。
わたしの声も言葉も飲み込んでいくようだ。



沈黙は静かにに二人の間に浮遊している。
本音の言葉を一度外に声として出してしまえば
そこが始まりのような気がする。



もう何処にも戻れないような気がする。
そこに怖さがある。










コーヒーを淹れて、彼の前に置く。
その時に表情を伺う。
見る限りでは、いつもの彼で。
いつもそう、見る限りでは。
たくさんのフェイクを混ぜて、
自分の本心や弱音は隠し通して彼は生きている。



けれど何故だかわたしには分かってしまうのだ。
彼が無理をしているのが。
そしてそれは武蔵くんにも分かっていて
言葉通りに今わたしはここにいる。
「ヒル魔くん」
やっと発した声に反応するように、彼は手をこちらに伸ばしてきた。
先ほどセナに握られたばかりの手を掴まれる。
わたしは声を震わせながら言った。
目は決して逸らさずに言った。
「泣いてしまっても、いいのよ」





「…っ、テメーはそうやって、いつも俺の中に踏み込んで…っ」
掴まれた手に力が加えられ、痛くて熱かった。
見つめ合う。
二人の視線は絡まったまま、動かせなかった。
ヒル魔くんは立ち上がる。
手をそのまま引っ張られる。



わたしは体のバランスを崩して、ヒル魔くんのほうに倒れこんだ。
すぐに背中にまわされた腕は今日は優しくなんかなくて
痛いくらいの力を持って強く抱き締められた。
「ヒル魔く、ん。くるし…」
「……」
「…くるしい、よ」



圧迫感で息がしにくい。胸が苦しい。
鼓膜は雨の音に囚われたまま、他の音を遮断しようとしていた。
「テメーが勝て、と言ったのにな…」
その彼の呟きは雨を擦り抜けて降って来て
わたしの内に込み上げてくるものがある。
震えが立ち上ってくる。









勝てなかったのだ。



わたしたちは
勝てなかったのだ。






勝って、と願った試合で勝てなかった。
試合終了のあの瞬間に
顔を覆い、悲しくて泣きたくて目元震わすけれど
わたしはどうしても泣けなかった。
ただ呆然とするだけだった。











今も、そうだ。



どうして泣けないんだろう。



どうしてわたしは何もできないまま
彼の腕の中にいるのだろう。







そして
彼も泣けなかった。



彼の目は閉じられたままで。
わたしの体を強い力で抱き締め続けていた。



















ただ



空だけが、泣いていた。
















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きっと代わりに
泣いているのかもしれない。
空が。
わたしたちを見つめ続けた、空が。





2006/3/21 UP


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