音もなく暮れゆく空の
その色だけを映したように



赤い月は
東の果てから緩やかに姿を現した













『あかいつき』










だんだんと秋は深まっていく
そんな頃。










こんな気恥ずかしさを巣山は
今まであまり体験したことはなかった。



今まで日常だったことに
少しの緊張が加わり、その中に期待が混じり
それはまったく違う感情を連れてくる。



そう、期待がぐるりと混じりあって
こんなにも胸を騒がせる。



自分が自意識過剰なだけで
今日という日は何事もなく
あっさりと終わっていくのかもしれない。
それはそれで仕方がないと思ってもいたし
冷静に考えれば、至極当たり前のことでもあった。






だが。
彼は声をかける。
そして前回と同じ台詞を使ってきた。


「お願いがあるんだけど」


放課後、部活が始まる前に
水谷はこちらに寄ってきて、小さな声で言った。
笑顔ももちろん連れてきて、
巣山の刈りたての頭を見ながら言ったのだ。
「また、触らせてくれる?」
「ああ、いっけど。オレ今週鍵当番だから
帰り部室で待っててくれよ」
「りょーかい♪」
「水谷」
「ん」
「…いいんだけど、頭」
「うん?」
「交換条件がある」



水谷は一瞬ぽかんとしていたが、
すぐにまた笑顔で「いーよ」と返した。
「もう練習始まるから、巣山その話は後でね」
「いいのか?」
「だって、無茶な条件なんか出さないだろ?
だからいーんだよ」
去っていく水谷を見ながら、巣山もその顔に笑みを浮かべる。



期待は朝より3割ほど増していた。



頭上に広がる青空に、その東方に
溶け込むような白い月がないかと
探してしまった。




けれどその時は
見つからなかった。
昨日は陽が落ちたその直後に
満月が東のほうから上がっていた。
なら時間的にまだ出てないだろうとは思ったのだが
それでも探さずにはいられなかった。











夕陽は地平の涯に堕ちようとしていた。
その傍らに闇は迫っていて
今日という日の終わりを示してそこにあった。





部室も夕闇に半ばほど支配されていたが
それほどまでに暗くはなく、明かりはつけなかった。



「ほら」
購買前の自販機で買った小さめ缶のミルクティーを
巣山は水谷に向かって投げる。
「ありがと」と声が返る。
自分の分である無糖の缶コーヒーを開ける。
からからに喉が渇いているのに気がつかなかった。
少し温めの液体がそれでも喉を潤して
体の中に入っていく。
一気に飲み干した。
水谷はと見ると、巣山が渡したミルクティーを
ちびちびと飲んでいた。



「交換条件って何?」
「…いいのか?」
「言わなきゃなんだか分かんないんだけど」
「お…そうだな」
「いーよ」
笑みを見せて水谷は言う。
「巣山の条件ちゃんとのむからさ、言ってくれよ」
「水谷」
「うん」
「オレも、お前の髪に触りたい」
水谷は一瞬目を見開いた。
表情は少し硬直しているように見えた。
そのまま数秒黙って、唇を引き結んで
視線を微かに床に落として、
息を吐きながら「いーよ」と答えた。
「でもオレが先ね」
言いつつミルクティーを慌てて飲んでいた。





水谷に頭を触られるのはこれで2度目になる。
座った巣山の後ろに水谷は膝立ちをし、手を伸ばす。
その指と掌の感触に、照れと恥ずかしさを感じて
巣山は黙ったままだった。
水谷はうれしそうだ。ふ、と笑う声が出る。
なんでそんなにうれしいのかはよく分からなかった。
少しばかり沈殿する気持ちがあった。
「つむじからさ、流れに沿って撫でると
ふわふわってして、頭の熱も感じてすっごく気持ちいいんだぜ。
少しでも伸びると頭皮の動く感覚とかがなくなるから
イマイチになっちゃうんだよな」
「…そ、そうか?」
「髪洗った後とかだと、濡れてもっと髪が柔らかくなって
感触いいんだろうな」
ふふ、とまた水谷の声が出て、今度は両手で頭をかき回し始めた。
「水谷」
一応は抵抗を試みる。腕を伸ばして片方の手を掴んだ。
「へへっ」
「お前、こんな感じで誰かの刈ったばっかの頭を触ってたのか」
もやもやとした気持ちに耐えられなくなった。
躊躇はもちろんしたが、訊いてみる。
水谷はあっさりと答えた。
「触ってたな〜、小学校…うーん2年くらいのとき?
友達にいたんだよ、ちっちゃい頃から坊主のやつ」
「へぇ」
「坊主頭好きなんだけど、この面じゃ似合わねーし、
親も姉貴も反対するしで…ちょっと憧れだな。
坊主頭だったら誰でもいいって訳じゃ…ないけど」
ちらとこちらに視線を向けた。
確かに、水谷の坊主頭はちょっと想像できない。
第一その風にさらりと揺れる柔らかいちょい長めの髪を持つ
水谷に良く似合っているその髪形ではなくなるのが
巣山は想像できていなかった。
「巣山ぁ?」
「ん」
「…交代しようか?」





水谷は膝立ちのまま、巣山の前に移動してきた。
巣山も同じく膝立ちになった。
「後ろからってのも何だし…こんなでいーの?」
ちゃんと顔も見たかったので、頷いた。
へへっと水谷は笑う。
「何だかさ、オレたちって変だよな。
男二人放課後の部室で何やってんだか」
「なんで?」
その疑問符はするりと出た。
「…いやほら何でって言われても」
「変じゃねェよ、別に」
「そっかな」
そう言われて、そうだよ、と返した。
水谷は笑わなかった。
ぎゅっと目を瞑り、再び開けて巣山を見た。
「………触って、いーよ」
目を細めて小さな声で言った。



巣山は程よい距離の水谷へ、その髪へ、手を指を伸ばす。
視線が合って照れくさかったが、
あまりその辺は気にしないようにと努めた。







それより、触れたかった。



水谷の持ち物であり、自分にはない
明るめの色をしたその柔らかい髪に、ずっと触れたかった。



自分が鍵当番の週に合わせて髪を刈ったのも
こうなることを望んでいたからだった。
もちろん水谷から何もリアクションがなければ
素直に諦めるつもりではあった。
だが水谷は声を掛けてきたのだ。





伸ばした巣山の指は、
水谷のこめかみを掠めてその先までも触れて。
思ったとおりの柔らかさに巣山はうれしくなる。
水谷が自分の坊主頭を撫でながら
笑った理由も分かるような気がする。
その髪をすくように触り、小さく下に移動する。
水谷は恥ずかしいのか、目を瞑った。
親指が頬に触れる。
髪だけではなく、頬の感触も柔らかい。



軽く指を動かして、掌で頬にさらに触れると
その頬にだんだんと朱が差していくのがわかった。
赤くなるんだ…と巣山は素直に喜んでいた。
水谷は俯いていく。
「おう、なんだよ。ちゃんと顔見せてくれよ」
「すやま…触ってんの、髪じゃねーぞ?」
「ああ、どっちも柔らかくて気持ちいいぞ」
そう言うとますますその頬は赤く染まっていく。





今日いくら青空に白い月を探しても
見つからない訳だ。
月は夕陽の色を取り込んで
まだ空には上らずに
目の前にいるじゃないかと、そう巣山は思った。





「すやまぁ…っ」
「っ…わり」
水谷は巣山の手を外し、
くるりと後ろを向いてしまった。
「も、ダメ。髪だけっ」
「では、もう一度」
巣山は笑いながら、再びその髪に指を伸ばした。










今宵は満月。


東から上ってくる月の
色は今日は赤いだろうか?















しろいつき

あかくそまる





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2006.3.25 up