ふわりと浮いて
ふわりと消えていった



あれは確かに
歌だった











『うたごえ』










まだ秋の初め。
それでも日差しはずいぶんと柔らかくなった。
夏の持つ、大気の中の湿気は薄らぎ
日々澄んでいく風を感じることができる。



その中でも極上の風。
自転車通学をしていると、
1年のうちにほんの数回だけ
すごくいい風を感じることがある。





「巣山ぁ」
自転車小屋から自転車を出そうとして
巣山は声を掛けられた。
振り向くと、水谷がいた。
「水谷」
「なあなあ巣山、今日はまだ時間も早いし
コンビニ寄って帰らね?」
「おう」
普段家が逆方向なこともあって
なかなか一緒に帰る機会はない水谷と
より道もいいなと思う。



水谷のイメージは青空に浮かぶ白い月だった。
夜の月とは違い、
昼間の月にはなかなか巡り会うことは少ない。
だからなのだろうか、一緒に野球をしている
もうひとつの月をとても大事にしたかった。



ふわりと笑う水谷の笑顔は
いつまでも巣山の内に残っていて、
いつか見た朝の白い月のように
優しく輝いているのだった。







「スポーツ飲料でなんか新製品が入ったって
誰か言ってた、誰だったっけな」
そう言って、水谷は微笑む。
自分に向けられる笑顔がうれしかった。
巣山の自転車に水谷は視線を落とす。
「…巣山のチャリってスゲーかっこいいよなー」
「そっか?」
「速そう…。車と競争して一緒に走ったりする?」
「いやオレは…そういえばこないだ山岳部の連中が数人でやってたな。
やつら足腰の鍛え方が半端じゃないし、
みなとんでもねーのに乗ってるからすごかったぞ」
「原チャリとくらいなら並んで走れるけど
さすがに車は無理だなー」
「はは、そうだな。
てか、巻き込まれた車のほうがびっくりだよな」



正門から公道に出て、近くのコンビニに向かう。
巣山が先に出て、水谷が後をついてくる。
スピードは余り出さず、追いついてくるのを待つ。



風。
今日の風はとても爽やかだった。



冷たすぎず熱すぎず、優しい感触で
肌を撫で通り過ぎていく風。
湿気は少なくさらりとしている。
極上の風だ、と巣山は思う。





心地よさに目を細める。
その時に。





歌が、聞こえた。










音階を持つ声が、鼓膜を通して
巣山の意識に進入してくる。
声が優しくまとわりついてくる。
後ろから聞こえてくるその歌声、
よく聞き取れないが英語の歌詞なのはわかる。
歌っているのは…水谷なのか?



その歌声は
ふわりと浮いて
ふわりと消えていった。








「巣山ぁ、待って」
横に水谷の自転車が並ぶ。
並んでも話せるように
あまりスピードは上げず漕いでいく。
「今日、すごーくいい風吹いてるなっ」
いつもと違う、この風がわかるのかと思うと
うれしくなった。
水谷の柔らかい髪が視界の端で軽く揺れる。
「水谷」
「ん〜?」
「お前…歌ってた?」
「…ん、ああ。聞こえた?」
「聞こえたよ」
「気持ちいいとさ、歌いたくなんねェ?…お先!」
突然水谷はスピードを上げて、巣山の前に出た。
そのまましばらく突っ走ってコンビニの敷地に入り、
自転車をすべらせ止める。
「いっちばーん♪」
手を上げ茶目っ気たっぷりの笑顔で巣山を迎える。
巣山も水谷の横に自転車を止めた。
「お前、ずるいぞ」
「へへっ」
水谷はやはり笑って、そのままコンビニの
自動ドアの中に吸い込まれていった。






また歌わないかな。



そう巣山は思った。
ほんの数秒間だけ聞いた水谷の歌声が
記憶の何処かに刻み込まれたまま
繰り返し繰り返し再生されていく。
そのまま意識に声が絡み付いていて
自分の中でいっぱいになってしまいそうで
巣山は戸惑った。



「どうしたかな、オレ」
呟きはすぐに風に攫われる。






店のドアが開き、水谷が出てきた。
「どした?巣山」
なかなか店の中に入ってこないので
気になってまた戻ってきたようだ。
「ああ、ごめんな」
「オレ、ショートケーキに
ココロすっごく動かされてんだけど、どうしよっかな〜」
「お前生クリーム好きだからなあ。行こう」
今度は2人でドアを通る。














歌わないかな。





水谷の声を欲して、
巣山はもう一度だけそう思った。













しろいつき

うたう





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2006.3.1 up