決してそれを無くさない。








『白木蓮 2』










花は既に、そこには無かった。








三橋は嘗て触れた花のその喪失感に動くこともできず、
ただ涙をその場で流すだけだった。
今宵の空に柔らかな光をいつも三橋に投げかけてくれる月は無かった。
季節は熱量を増した風と共に初夏に向かおうとしており、
夏至に近付くにしたがって少しずつ長くなる昼間を引きずって、
夕方も遅い時間のはずなのに、西方にはまだ地平に落ちかけの太陽があった。
街灯はぼちぼち点く頃だろうか。
薄闇の中で細い枝だけが視界に浮き上がっていた。
花も、そこには無かった。




新年度になって、硬式野球部の創立メンバーとなった仲間と共に、
三橋は高校2年生になっていた。
後輩が野球部に入り、夏に向かい慌しい日々が続いている。
今日はミーティングの日で早めに部活が上がったので、
中間考査も近付いていることもあって、阿部の家で勉強を見てもらっていた。
その帰りに久しぶりに阿部の家近くの住宅街に立ち寄ったのだ。
触れたいと思うほど阿部にイメージが似ている花が咲いていたのは、
2年生になる直前で、阿部と2人で夜闇に白く浮かぶ花を見た。
思えば花が咲く時期はそんなに長く続いているはずはなく、
それは三橋も十分に分かっていたはずなのに、
いつまでも、いつまでもここに来れば花は有るような気が何故かしていた。
今ではもう名も知らぬ花ではない。
三橋は枝を見上げ、けれど泳ぐ指が触れるべき対象は無く、
零れ落ちる涙を腕で拭った。
「う、うええ……」
阿部の笑顔を思い浮かべながら嗚咽を抑え付け、
落ち続ける涙を何度も何度も拭った。




「花は散るもんだ」
背後から突然に声が降って来て、
伸びてきた両腕に肩をそっと抱き寄せられた。
「……独りで泣いてんじゃねーよ」
「あ、阿部く、ん」
「やっぱここだったか、真っ直ぐ帰れよと言ったのに」
「な、何で……?」
何故ここにいるんだろう、と三橋は思う。
自転車を停めた音も聞こえていなかった。
少し低めの阿部の声が耳元で響いて、心臓の鼓動もそのせいか跳ねている。
「おめーが自分で言ったんだぞ」
「ええ?」
「帰り際に『花はまだ咲いてるかな』って、……覚えてねーのか。
まさかと思って追いかけて見れば、やっぱいるし、泣いてるし」
「ごめんな、さい」
「泣いてんの見てっと、オレも泣きたくなるだろが」
「……阿部君の花が、見たかったんだ。無かったけど、散っちゃってたけど」
「うん、たださ、ずっと咲いてっぞ?」
「……?」
「春に見たここの白い花はちゃんと記憶の中にあっから。
オレは無くしてねーし、これからも無くさねーよ。
新しい花が春にまた咲くまでは、記憶にある花を愛でていけばいいんだ。
そうは思わねーか?」
肩にかかっていたはずの阿部の腕の重みがなくなったと思ったら、
三橋の視界に影が差した。
阿部の顔がほんの目の前にあって驚く。
「目ェ、瞑ってみろ」
何度も頷いて瞼をぎゅっと閉じる。
更に阿部が顔を近づけてくるのが、気配で分かった。
額と額が軽く触れ合う。
「ちゃんと花は記憶の中にあんだろ?」
確かにあの日見た白い花の情景が脳裏に浮かぶ。
阿部の笑顔と共に、たくさんの白い花が闇の世界に咲いていた。




「さ、咲いてる、よ!」
そう言って、指を動かして阿部の手を捜した。
触れたかった。
ただ、触れたかった。
それが阿部にも伝わったのか、向こうから三橋の手を握ってきた。
あんまり近くに阿部がいるのでたまらなくうれしくてふらふらするけれども、
閉じた目を開ける勇気はなく、そのまま三橋は言った。
「あ、あのね、阿部君、この花。この木の花、『ハクモクレン』っていうんだって」
「へえ」
「田島君が教えてくれたんだ、ハクは白って書いて、白いモクレンなんだって」
「あいつもよくそんなの知ってんな」
「オレは、ハクモクレンが、阿部君に似た花が大好きだ」
「三橋……」
唇への温かい感触で、阿部からキスされたのだと分かった。
先程とは違いうれしくて、うれし過ぎて涙が零れる。
今度は拭いたくはなくてそのままでいた。
延々とこの静かな時間が続けばいいのにと三橋は思う。
「あーも、このまま帰したくねーよ!またオレん家来っか?いっそ泊まらね?」
強く抱き締められて、阿部が更にうれしいことを言う。
「う、ううん、でも親が待ってるから、今日は帰る」
首を振ると阿部が体を離した。
「だよな、さっき帰るって電話してたもんな、しょうがねーか。
……じゃ、また明日な」
「うん、また明日」
「ちゃんと真っ直ぐ帰れよ、寄り道すんなよ、あんま泣くなよ、笑ってろ。
オレは笑顔の方が、好きだかんな」
三橋の頭をぽんぽんと軽く叩き、自転車に跨って阿部は手を振る。
見送りたいからと、三橋はまだその場を動かずにいた。
涙の痕はついたままだったが、笑顔で三橋は手を振り返した。
何度もこちらを振り返りながら小さくなっていく阿部の背を見送って、
自分も帰ろうと自転車を少し走らせ、止まる。
濃くなっていく闇の中に浮かぶ枝をもう一度だけ視界に入れた。
「……ずっとずっと、好きだよ」
来春になってもその先も、
花も阿部もずっと好きでい続けると三橋は信じている。
だから次に咲くまでは、記憶にある白い花を愛でていくのだ。







花は心の中に咲いていた。
いつでも思い出すことができるのだ。




それは「白木蓮」という名の、花だった。








END










阿部、お誕生日おめでとう!
ずっとずっと大好きです!


「白木蓮」は、こちらが先にできた話でした。










2008.12.11 up
(2008年12月11日阿部お誕生日記念SS)