名も知らぬ花だった。



花に触れたいと思ったのは
初めてだった。










『白木蓮』










ほんの少しばかり欠け始めた月の光は、
星も見えない夜闇に、
静かに、静かに降り注いでいた。









三橋が出逢ったのは木の花だった。
月光を浴びてその花弁の白を浮かび上がらせていた。
名も知らぬ、花だった。



桜が世界をその色に染めて綺麗に花を咲かせている頃。
もう2年生になって後輩も入ってくるというのに、
まだまだ阿部と上手く意志の疎通ができないことがあって、
阿部の家からの帰り道、自身の不甲斐なさに三橋は涙目で自転車を走らせる。



近くの住宅街にその木はあった。
濃い目の焦げ茶色の細い枝、だが全体はかなり大きい。
その枝の端に大きな白い花がついている。
枝はいくつも伸びて、花はたくさんあって。
月に手を伸ばすように、向かって花弁は立っている。
闇の中、その花は淡く白く、光る。
街灯もあまりないこの通りで、
迷い児が紛れ込んでも目印になるくらいには白い色は目立っていた。
「きれ、い」
三橋は自転車を木の横に停め、木を見上げる。



見上げて、そして触れたくなっておずおずと右手を伸ばした。
左手はまだ零れ続けている涙を拭うので精一杯だった。
花に触れたいと思ったのは、初めてだった。
肉厚さを感じる花弁に触れてみたかった。
花弁は掌を重ね合わせたような形に見えたので。



最初に阿部と手を重ねてから、季節はくるりと一回りしようとしている。
出逢いの春、暑くて熱かった夏、秋も冬も過ぎてまた春がやってきた。
「阿部、君」
穏やかに咲いている花の、その様に阿部の笑顔が重なる。
彼は自分に比べて、あまりにも真っ直ぐに生きているように思える。
本当は誰よりも、その心は花のように白いのではないか。
真っ直ぐに生きてきた人間だけが持つその心の白さ。
「阿部、……君」
心の何処かで、いつも憧れて憧れて止まない。
阿部が好きだった。








「三橋!」
もう少しで花弁に手が届きそうだったのに、阿部の声が聞こえて、
三橋は慌てて腕を下ろした。
落ち込んだ様子に心配になって追いかけて来たのだろう。
三橋の目の前に自転車に乗った阿部が現れた。
「……ああ、やっぱ泣かしちまったのか。つか、おめーもあんくらいで泣くな」
「ごめん、なさい」
涙で濡れた顔を見られたくなくて俯いたら、
三橋のふわふわの髪の中に阿部の手が入りくしゃくしゃにかき回される。
「ばーか」
「うにゃ」
「謝るのはオレのほうだって。ごめんな」
掛けられた優しい言葉がうれしくて余計に泣きたくなった。
三橋は慌てて涙を袖で拭う。
阿部は自転車を降りスタンドを立てて、三橋の傍に立った。
そして小さな声で言った。
「笑ってくれよ。オレは、泣き顔よりは笑顔がいい」
「……ほ、ほんと?」
「お前の笑ってる顔がイチバン好きだ」
「うひ」
阿部から両の頬をむに、と引っ張られる。
笑いたいのだけど上手く笑えない。
「だから笑えよ」
「うへ」
「ほら笑えったら」
引っ張る力は突然になくなって、ふるふると首を振る。
痛む両頬に掌が被せられ、気が付くと阿部の顔が間近にあった。
このまま口付けができそうで、
その一歩を踏み出したいと思うがなかなか勇気が出ない。
せめてもと三橋は阿部の手に自分の手を重ねた。
暖かさに静かに満ちていくものがある。
「好きだ」
再度言われて、あまりのうれしさに笑顔になる。
「……やっと笑ったな」
そう言って、阿部も笑顔を見せてくれた。




月の光は花だけではなく、優しく自分達をも照らしてくれているようだ。
花は穏やかに2人の傍に在った。
この白い花に似ていると言ったら、阿部はどんな顔をするのだろうか。
「あ、あのね、阿部君、この花、」







その白さに憧れている。








名も知らぬ、花だった。









END















ミハ、お誕生日おめでとう!
実はこの話には続きがあったりします。
それはまた、いつかに。


白木蓮の花の時期は、紫木蓮よりは早くて
3月半ばから4月半ばだそうです。







2008.5.17 up
(2008年5月17日三橋お誕生日記念SS)