下界から見上げる月は
皓皓と輝いて
それだけで人間を魅了する


その月の光を浴びて
花が開くように
柔らかに微笑んだ
















『月下の花』










世界は、どこもかしこも秋の色をしていた。
空は透き通って、色づく木々の彩に太陽の優しい光を落としていく。
初夏とは違い、肌を冷たくして通り過ぎていく風は
冬の訪れが近いことを告げていた。





オレ、巣山と、西浦高校公式野球部創設メンバーの
高校生最後の夏は、既に終わってしまっていた。
敗戦と共に唐突に降ってきた受験生の肩書きが、
段々と日常を落ち着かないものにしていった。
もうただの友人とは呼べない関係になってしまった水谷とは、
なるべく時間を合わせては一緒に受験勉強をするようにしている。
今日も夕刻までは、一緒にいた。





夜の十時もまわったころに、水谷からメールが来た。
件名はなし。本文は五文字のみ。



『迎えに来て』



家に帰ってるはずの時間だった。
迎えに行く、その肝心の場所の記載すらなかった。





思い立って、家の外に出る。
夜空を仰いだ。
南の空に綺麗な満月が浮いていて、その月のおかげで水谷の居場所が分かった。
「またグラウンドか」
もう三度目だ。引退してから、既に三度目。








あいつはまだ、月と共にあの場所に囚われてしまっているのか。














自転車こいで駆けつけた、第二グラウンドの周囲はあまり街灯も多くなく、
その分月がぽっかりと夜空のとおく、光を際立たせてそこにあった。
さすがにもう夜中といっていい時間なので、人通りもなかった。
グラウンドの入り口に近いところに、座り込んで月を見上げている水谷の姿を見つける。
「水谷!」と声をかける。
水谷はこちらを見る。不安そうな表情が笑顔になっていく。
花が開くように笑うその顔は、とても綺麗だった。
オレにとっての唯一の花がそこにあった。







「すやまぁ……」
水谷はゆるゆるその場に立ち上がった。
近づくにつれ、水谷は笑顔を歪めて今度は泣きそうな顔に変えていく。
自転車を近くのフェンスに立てかけると、オレは水谷の手を取って引き、
そのまま細い体を抱き締めた。
「迎えに来てもらうの、何度目……だっけ」
「三度目だ」
「ごめん」
「お前、体冷えてる」
オレの腕に指で触れ、安心したように水谷は息を漏らした。
「……オレだけ、ここから何処へもいけないのかな。ここにこうして囚われたまま、
何処へもいけないのかな。……卒業してしまっても。ずっと」
野球部を引退して、そのことが一番のダメージになっているのは実は水谷だった。
夜空に浮かぶ月を見てると、心がとてもざわついて寂しくなるらしい。
ならオレのところにくればいいのに、水谷が向かってしまうのはこのグラウンドで。
月を見つめたまま動けなくなって、呼ばれるのはこれで三度目のことだった。






「そんなにもお前にとって、野球部は大事なもんだったのか」
「うん」
「……そっか」
「大事なのが、ちゃんと『野球』だったらよかったのに。
そしたらもっと先に目を向けられたかもしんないのに。
オレにとってより大事だったのは、オレたちがいたこのグラウンドだったんだ。
ここにいたみんなだったんだ。…離れて、初めて気がついたんだよ」
その気持ちはとてもよくオレにも分かって、震える水谷が愛しくて、抱き締める腕に力を込める。
「巣山、お前も離れてく?オレから離れてく?」
「離れていってほしいのか?」
水谷はふるふると首を振る。オレの胸に手をついて体を離し、またしゃがみこんでしまった。
慌てて自分も体を下ろした。
水谷に触れていたくて手を握ったら、思ったより冷たくて驚いた。





「おい、大丈夫か?」
「ごめん、弱いとこばっか見せててごめん」
俯いたまま、水谷は小さな声でそう言った。
「……」
「お前もっと叱ってくれていーんだよ。「しっかりしろ」とか「前見て歩け」とかいってくれていーんだよ。
何でいっつもそのまま受け止めてくれんの。オレどんどん甘えちゃうよ」
「……オレにとっては、どんなお前でもお前。わかってねーな」
「わかんない」
「お前を甘やかしたいオレもいるし」
「もっとわかんないよ、巣山」
そう言って潤んだ目でこちらを見上げてくる。
平気でいられないぞ、そんなの見ちゃったら。
怖がらせないようにゆっくりと顔を寄せ、ちゅ、と小さな音をたてて、水谷の唇を吸う。
もっとしっかりその唇を味わいたい気もしているのだが、
これ以上進んだら全然抑えが効かなくなりそうでそこは理性で押し留めた。
水谷の目尻からは雫が一粒零れ落ちて、それを見てしまうと、皮膚が裂けるように切なくなった。







「すや、ま」
「オレはお前にどーしよーもなく惚れてるからな。それはわかれ」
水谷は頬をそれは真っ赤に染めて、ただ頷いていた。
オレは水谷が持っていて、いつも何処かに隠れてしまっているその純粋さが好きだった。
僅かな時間だけ花開く月下美人のように、誰も知らない…もしかすると
本人も気が付いてないその綻ぶ花を、オレは見つけてしまっていた。
「巣山……好きだ」
「うん」
「何処にも行かないでよ。オレから離れないでよ」
「うん」
「ごめん…ぐす…」
漏れ出す嗚咽を抑えつつ、流れ出る涙を袖口で拭っている。泣かないように、そう頑張っている。
「泣いていいよ」
「…っ、すやまぁ」
水谷は首に手をまわして抱きついてきた。
「お前、オレの前では泣いていいんだよ」
独りで泣かれるよりは、そのほうがずっといい。
泣いても泣いても、その後に、また花のような笑顔を見せてくれるのなら。
「そして何度でも、必要なら、寂しいのがそれで癒されるのならここに来てもいいんだ」
「いいのかな、オレ、そんなんでいいのかな…」
「ただ、な」
「…うん」
「独りで来んな。オレも付き合うから、いつでも付き合うからな」








   今はまだ、
   楽しかった日々に囚われていたとしても、
   何もかもがいずれ思い出になっていく。
   人とのつながりは変わらなくても、
   出会って過ごしてきた場は変わっていき、
   すべて記憶の中に飲み込まれていく。









ただ今は、水谷のその細い肩を、その繊細な心を、支えてやりたいと思うのだ。
「失くしたものを思う、それもわかっけど、『今』もちゃんと大事にしような」
「……今」
「おう。随分と冷えてきたし、帰るぞ」
「……かえ、る」
「ちゃんと親には言ってきたし、お前ん家にも連絡した。
ファミレスで一緒に勉強してくるっつって家出たから、
日付が替わるまでは傍に居てやれるが……どうする?」
「ありがと。でも、もう少し月を見ていたい。ダメかな」
「独りで?」
そうオレが言うと、照れたように水谷が返してきた。
「二人でだよ。お前がいるじゃないか」
うれしくなってオレが笑うと、水谷もふわりとした笑みを浮かべた。
月の光を浴びて、月下の世界で、花が柔らかく開くように。















 それは、オレが大好きな、水谷の笑顔だった。













END


















つきのはな、たいようのき



数年前にオフで巣水アンソロに書かせていただいたSSの
再録となります。




2011.1.4 サイトUP



back