こんなに惹かれているのに








『桃』










自転車をこぐ栄口の目の前には、
八重に花弁が重なっている淡いピンクの花をたくさんつけた、
一本の枝が揺れている。
それは前カゴにカバンと共にビニールの買い物袋に入っている花桃の一枝で、
先程水谷からもらったものだった。
水谷の家からの帰り、坂道の段差に自転車の前輪が跳ね、
枝が落ちてしまわないかと慌てて栄口は手を差し伸べる。
空を覆い隠す夕闇は深くなっていて、だからだろうか、
上手く掴めなくて当たった手と震動に、枝はしなって大きく揺れた。
急ブレーキをかけ、自転車を停める。
落ちなくてよかった、と栄口は大きく息をつく。
少しでも傷つけたくはなかった。




水谷が愛でていた花の半分を今自分が持っていること。
それが栄口にとって途轍もないほどの幸せで。




花の香りに、春を感じた。























季節は桃の節句の頃、3月に入ったばかり。
肌に触れていく風に冷たさをあまり感じなくなって、
春は確実に近くまで来ていた。




学年末考査が近付いてきて、部活は休みの期間に入っていた。
野球部全員で勉強会をするには毎日の場所の確保が難しいので、
数人ずつに分かれてそれぞれ勉強をすることになっていた。
水谷の家で2人きりというシチュエーションは久しぶりだった。
「お茶淹れてくるからさ、座っててよ」
水谷の笑顔は全開で、鼻歌など歌いながら部屋を出て行く。
付き合いだしてまだ1ヶ月、
オフシーズンとはいえなかなか2人でゆっくりできる時間もなかった。
水谷が浮かれているのも無理はない。
だが今日はがっつりと現国古典の詰めをやるつもりだった。
阿部に怒涛の勢いで叩き込まれた数学も、なんとか昨日で試験範囲をクリアした。
2年生になれば今より更に勉強も難しくなるだろう。
野球漬けの高校生活のその先にも人生がある。
やれることは精一杯やっておきたいと栄口は思うのだ。




散らかってるとは言えないまでも雑然としている水谷の部屋を見回す。
栄口は青い空が映る出窓に目を留めた。
場に不似合いな口の広い陶器の花瓶に花の枝が2本活けてある。
「梅……?いや、桃かな?」
そう言えばひな祭りは先週だった。
枝についているピンク色の花々は満開になっていた。
ふわふわとした柔らかい輪郭を持つ花弁たちは、
その印象が水谷のそれと重なる。
「好きだよ」と自分に向けられた声はまだ記憶に新しく、
その時の水谷の、風に髪が揺れる様も角膜に焼き付いている。
何度でも思い出す。
好きな気持ちは日々増していくばかりで、
温かく心は満たされている。
花はあまりにも綺麗で、水谷の笑顔を思い出して、
見とれてしまい栄口は動けず、目も離せなかった。




「……栄口?どしたの?」
声に振り向くと、水谷がトレイを抱えて立っていた。
紅茶のセットとおやつのフィナンシェが並んでいる。
慌ててしまいばたばたと両手を振り、まるで挙動不審者のようだと自分で思う。
落ち着くために栄口は胸に手を当て深呼吸をした。
それから花を親指を立て、差して問うた。
「あっ……、あの、あのさ、これ桃?」
「うん、そう、『矢口桃』」
「へえ。そんな名まえなんだ」
「ひな祭りの時期の花桃って大概が『矢口桃』なんだよね。
早咲きだし栽培促成もされてっからこの時期にあるけど、
ほんとは3月中旬くらいから咲き始めるよね」
「はなもも、」
「うん、実がなるのが『実桃』、観賞用の花が『花桃』。
ほら座って、お茶冷めちゃうよ」
促されて床のラグの上に置いてある小さな丸い白テーブル、その傍に座る。
「花とかそんな詳しいって知らなかったな」
「小さい頃から桃の花が好きだったんだよ」
えへへと笑いながらテーブルの上にトレイを置き、
栄口のすぐ横に水谷は座って続けた。
「姉貴の雛人形はろくに見もせずに、
一緒に飾られていた桃の花ばっかり見てたってさ。
花の枝を欲しがって泣いたこともあったみたいで、ぜんっぜん覚えてないけど。
だからかなあ、ひな祭りが終わると毎年渡されるから、
こうやって部屋に飾って枯れるまで部屋で愛でてんの」
「ふーん。この花ってどこか水谷に似てるよね」
「ええっ?そうかなあ」
「そうだよ」
「自分では分かんないけどなあ。あ、お茶どうぞ」
「うん」
口をつけた紅茶は微かにバニラの香りがして、甘く美味しかった。
視界の隅に花が映る。
何故だろう、気になって気になってカップを置いて再び花を見た。
ピンク色は心にも優しくて、それでいて高揚感もある。
いつまでも見ていたいような、ずっと見ていると照れてしまうような。
「栄口」
「……うん」
「その花桃とオレとどっちが好き?」
「え」
返事をする間もなく、栄口は水谷にそのまま床に押し倒されてしまった。
顔の両側に手をついている水谷に、栄口は見下ろされている。
水谷の桃の花弁のように柔らかい髪が重力に遵って下りている。
間近にある潤んだ瞳が光って綺麗だ。
「ねぇ、どっちが好き?」
「な、何言ってんだよ」
「どっち?」
「……相手は花だけど。花とお前を比べてどうすんだよ」
「だってそんなうっとりした表情で花ばかり見ていたらオレはヤだよ。
そんなん妬いちゃうよ、オレを見てよ」
栄口はうれしくなって、水谷の首の後ろに両腕を回して水谷の体を引き寄せた。
水谷の腕も栄口の背に回ってきて、2人は抱き締めあう。
こんなに惹かれているのに、自分では気が付かないでいた。
それは花だけではなく、水谷自身に対しても同じだった。
「水谷に似ているから、オレはあの花をきっと好きなんだよ」
「じゃあ、花桃はひとつあげるよ」
「え、いいの?ありがとう!」
「うん。……だからねぇ、栄口。花にじゃなくて、その言葉オレに言って」
恥ずかしさが栄口の体中を駆け巡るが、この展開で言わないわけにはいかないだろう。
「……好き」
「誰のことが?」
「ああもうっ、水谷が!大好きだよっ」
満面の笑顔の水谷とそのまましばらくじゃれあって過ごした。
夕闇が空の東方を染めてきていて、それが時間の経過を物語っていた。
「水谷、ちゃんと勉強もしないと」
「分かってるけど、けど、お願い、もうちょっと。
もうちょっと栄口に触れていたいよ」
そんな風にお願いされるとかなり弱い。
栄口は返事の代わりに、水谷の柔らかい髪に指で触れ、
濡れた睫毛に小さなキスを落とした。



























栄口は自転車を帰り道の途中で停めたまま、
満開の桃の花枝、そのひとつに指を伸ばして触れた。
どこに小さなキスを落とそうかと暫し迷う。
花に恋をしたのは初めてだった。
もしかしたら自分はこれから先も、
水谷に似ているものすべてに恋をしていくのかもしれないとさえ思う。




笑顔の水谷を思い浮かべながら栄口は、
花弁の下にある小さな薄緑色の葉に唇を寄せた。
梅と桜の狭間ではあるが、もうすぐ本格的に桃が咲く時期になる。









花と共に、
光溢れる春がやってくるのだ。











END










水谷、お誕生日おめでとう!











2009.1.4 up
(2009年1月4日水谷お誕生日記念SS)