1年7組という、場は好きだった。











『Classmate2』











声はただ、落ちたのだった。



「タスケテクレ」と、
その6つの音は確かに阿部の喉を通り、地に落ちていった。



目の前にいるのは花井で、驚いているだろうことは表情からも見て取れる。
冗談だと思ってくれるのなら、そちらのほうが都合がいいのかもしれない。
何から助けてくれというのだろう、どうやって助けてもらうというのだろう、
それは当の阿部にも分からなかった。
分からないままに落ちた言葉を暫し放置して、
沈黙は2人だけ残った7組の教室を満たしていった。
間抜けな6つの音は鼓膜を掠って転げ落ち、拡散して痕跡を今は残さない。



あれは暑い夏だった。



1年の夏合宿を控え、いろんなものを抱えていた夏だった。



セミの鳴く音が鼓膜に始終響いていた。
夏体が終わってすぐの頃の阿部は敗戦のショックもケガも三橋も抱えていて、
その上拭いきれてはいなかった過去の蟠りすら、自身のあちこちで燻っていた。
今だったら阿部の内部に時間をかけて沈殿していたものがあったと分かる。
溜まった澱を出させるべく、
その心に穴を開ける切欠を作ったのは主将である花井だった。
「吐いちまえよ、楽になっから」その時の彼は言った。



誘われるままに音は喉から出てしまっていた。
音は意味を成し、まるで言霊のように思考を支配されかけた阿部が、
意識に嵌まり込んだ澱から抜け出ることができたのは花井の言葉があったからだった。
「助けてくれ」と搾り出すような声で落ちたものに、
「助けてやる」と返してきた花井だった。
何から、そしてどうやって助けてくれるというのだろう、
それはもちろん当の阿部にも分からなかった。
「できもしねえくせに」、と阿部はすぐに毒づいてはみたが、
それでも、うれしいと感じる自分がいたことに当時は驚いていた。



花井から返ってきた言葉は、
そのまま夏の時間に、阿部の福音となったのだ。















野球漬けとなった高校1年生という人生の時間において、
阿部にとって1年7組というクラスは、
気張らなくてストレスが少ない貴重な場であった。



副主将の片割れである自分と、主将である花井が同じクラスに揃っていたこともあり、
何か事があればすぐに7組に集合となってしまうのが常だった。
教室が離れていた1組の栄口には毎度ご足労なことだったろう。
クラスメイトだと話し合いが楽だからとそんな理由で副主将に指名された阿部は、
自分が積極的に動かなくても後の2人がなんとかしてくれるだろうと思い、
興味がない面倒なことは花井と栄口に投げつつ、
じゃれついてくる水谷をいじってストレス解消をしている日常がある。
9組在籍の野球部員が乱入していても、
穏やかで静かなクラス内の環境に変化があまり見られないのに阿部は感嘆の息を零す。
学校での時間と、意識的には生活時間のほとんどを野球にとられてはいるが、
クラス内の空気は非日常を感じさせるほどに、阿部に心地良さを与えていた。



夏の時間に花井にたった6文字だけではあったものの、抱えていたものを吐露してからは、
周りに向かって少しずつではあったが気持ちを口にすることもできるようになっていた。
あの時自分が零した言葉は彼の記憶の何処かにまだ在るのだろうか、と思う。
返された言葉は、自覚のないままにずっと阿部の意識の奥底で阿部自身を救ってきたのだが、
もしかすると花井にとってはその場の勢いで投げられたものだったのかもしれない。
主将として、野球部の仲間として。
「助けてやる」と言われたことに阿部がどれだけ救われたのか、
花井はきっと知りもしないのだ。



2人の距離が大きく動いたのは冬になってからだった。
「オレと付き合わないか?」と何かの折にさらりと花井に言われ、
阿部が「いいよ」とあっさり答えたら、言った本人がすごく驚いていた。
「阿部、お前付き合うってどういうことか分かって言ってんのか?」
「……ずっと一緒にいるってことじゃねーのか?」
花井が次の言葉に詰まり、赤くなった顔を大きい手で隠しつつ小さく唸る。
「何でオレなんだ」と訊いたら、さらに唸った。
「いろいろオレとは違うから、かもしんねーなー」とだけ呟いて、
しばらくの沈黙を放り投げた後に「ありがとう」と笑顔を見せた。
だって花井は福音をくれたのだ。
そのことに報いるためにも、花井が望むのならばずっと一緒にいてやりたかった。
まだ自分の気持ちなんかよく分からない。
それでも、それでもだった。


















雨の音は放課後の教室で、2人の間に落ちる沈黙をなぎ倒して存在している。
真冬の土砂降りの雨は校舎自体をかなり冷やしている。
エアコンの効きがいつもより良くないのもそのせいなのだろう。
温もりが心地良さを連れて来て、初めての口付けは長い時間を伴った。
身体はぎこちなさで固まっていて下手くそな触れるだけのそれだったが、
現在の阿部にとっては精一杯だった。
離れた後も花井の顔を見ることができなくて、熱を持つ頬を放置し俯いていた。
花井相手に自分の余裕の無さを気取られているのが何となく悔しかった。
「可愛い」と言葉が投げかけられて、頭をぽんとはたかれる。
上目遣いでねめつけたら、花井の笑顔が目の前にあった。
「オレは、……」
言いかけて逡巡する。
花井は黙って阿部が追加で口を開くのを待っている。
「……オレは、お前に弱音ばかり吐いているような気ィすんだけど」
出逢った時はそうじゃなく、しばらくは心理的に圧倒的な優位に立っていた気がするのだが、
いつのまにか逆転してしまっていることに気付く。
小さく首を傾げた花井に、阿部は笑みを見せた。
「覚えてねーなら、それでいいんだ」
そのほうがいい。
忘れていてくれているのなら、それでいい。
「……『助けてくれ』?」
期待は裏切られ、思わず舌打ちが出てしまう。
「なあ、あん時、何で『助けてやる』なんてあっさり言えたんだよ…っ!」
叫ぶように声は出たものの、そのまま押し黙る阿部に向かって花井は言った。
「オレに何ができるのか全然分かってねーけど、
それでもオレは、お前を少しでも楽にしてやりたかったんだよ。
今でも思う。どうすればお前を楽にしてやれる?」
落ちてしまった弱音を受け止めてくれた、ただそれだけことで、
以後の自分がいかに楽に生きることができたのか、花井には分からないだろう。
「あん頃はやっぱいろいろあったんじゃねーのかお前、
三橋のこととか、武蔵野の投手のこととかさ。
気持ち的にギリギリのとこに来てんのに、自分で気付いてないんだなあって思ってた」
夏の頃を思い返すと確かにそうで、返す言葉は何もなかった。
「ただお前、オレになんか頼りもせずに結局自分で全部振り切っていったじゃないか」
「……そうだっけか」
「お前が好きだよ、阿部」
花井の腕がこちらに向かって伸びてくる。
頭を両腕で抱え込まれて、身動きが取れない。
「……なんか言ってくれ」
いかにも自信の無さそうな花井の声音に、阿部は顔を歪めて笑った。
「ずっと一緒にいる」
自分の気持ちをしっかりと自覚してしまっている今になっても、
そんなことを言う阿部だった。
ここで素直に「好き」だと伝えてしまうのは悔しかった。
言わなくても分かれ、傍に居る鈍感な彼にそんな無茶を言いたくもなった。







1年7組という、場は好きだった。
きっとそれは花井がいたからかもしれなかった。



花井はきっと何かの枠が欲しかったのでは、と思う。
クラスメイトという枠がはずれても、
この先野球部、そして西浦高校という大きな枠がはずれても、
付き合っていることで一緒にいることが容易になるのではないだろうか。









「一生、離してなんかやんねぇ」
阿部も自ら腕を伸ばして、花井の背を抱いた。
寒い日に、触れる温もりがこんなにも愛しい。



まだまだ付き合い始めたばかりで、何もかもがこれからだけれども。
2人向かい合って、これからの時間を生きていけばいい。
少しずつ近付いて温もりを与え合って、
一生の時間がそうであればいいと阿部は思ったのだった。






















……大変長らくお待たせしました。
やっと書くことができました。

話的にはこの阿部サイドのほうが先にできていました。
ただどうしても阿部視点で書くと状況説明がぼろぼろ(笑)落ちていくので、
先に花井視点のほうを書かせていただきました。

この後続くかどうかは現時点では分かりませんが、
ここまで読んでくださってありがとうございました!












2009.10.17 up