例えるなら彼は
大きな大きな樹のような










『日溜まりの樹』










校門を潜った後の「遅刻坂」と呼ばれる坂を
電車が遅れた日に駆け上がったことなら入学当初何度もあった。
オレ、水谷が自転車通学に変えてからも、
試験前の朝練がない日には、今にも鳴りそうな予鈴のチャイムに
必死な面持ちでペダルを漕いで坂を上がったこともある。






だが、人に抱え上げられた状態で
この坂を上がる日が来ようとは思ってもみなかった。
登校ラッシュの朝の時間、人目はたくさん。
「す、巣山…、お願い、降ろして」
「ダメだ」
「…でも姫だっこっていうのは」
「少し黙ってろ」
恥ずかしいよ、と言いかけて、遮られてしまった。
肩に担ぎ上げたほうが良かったのかと問われ、
それもな…と思い、唸ってしまう。
ああもう、熱を持つこの顔をどうしよう。
顔の方に意識が向いてしまって、足の痛みを忘れそうになる。





校門前で1年生の女子の自転車と接触、横転したオレ。
謝る女子を「遅刻するよ」と笑顔で送って、その後、
足捻っちゃったな、困ったなと思っていたところに
急に抱え上げられてしまった。
巣山だった。






お互いの自転車は放置のままだったが、カバンは2人分
巣山の肩にかかっていて、その上でらくらくオレを抱えている。
「保健室、行くぞ」
黙って頷いたら巣山は笑顔を返してきて、
その巣山の何もかもがかっこ良くて、胸がどきどきして、
ほんとどうしようかと思う。
……そして、オレは、ちょっとかっこ悪い。






入学して2年半が経っていた。
3年分の夏はもう終わってしまっていて、
受験生の肩書きを背負った秋がやってきていた。
でもオレは、季節を越えても、巣山に対するどきどきを抱えていて。





夏の終わりの、月の綺麗な夜に
巣山はオレのことをずっと見ていたと言った。
お前しか見ていなかったと、突然にそう言ったのだ。
告げられた言葉と意識に入り込んできた月の姿は鮮明に記憶に残る。
その夜から抱えてきた想いは確かにあるのだけど
それをきちんと巣山に対してまだ言えてはいなかった。














保健室には、誰もいなかった。
ベッドに下ろされ、慌てて靴を脱ぐ。
「…て」
やはりちょっと捻っているようで、足首に感じる違和感に
微かだけれども声が漏れた。
ベッドの上に座り込んだまま、どうしたものかと思う。
「大丈夫か?」
巣山の声も、その顔も思ったより自分の近くに在って、オレは驚く。
このままキスでもされちゃうんじゃないだろうかと
そんなことをつい思うほどに近かった。
何も言えず、ただ視線と沈黙だけを返した。
巣山の姿の向こう側には大きな窓があって、
窓のとおくで校舎横の木々が揺れている。差し込む朝の光が眩しい。
「…気付いてんのか?」
巣山の手はオレの頭を軽く撫でて、頬にするりと下りてきた。
何のことを言っているのかよく分からなくて、黙っていた。
頬に触れる指は温かくて、心地良かった。
一瞬だけ、躊躇うように視線を落とした巣山は、
何かを決心したように再び顔を上げ、口を開いた。
「お前…自分がちょっとおかしいって気が付いてるか?」
巣山から視線は逸らせなかった。暫し黙って見つめて、頷いた。
「……うん、知ってる」
自覚だけは、ある。十分に。
「夏の終わりの頃からだよな。オレのせいか」
「たぶん…違う。巣山のせいなんかじゃないんだよ」
だって巣山の告白は嫌じゃなかったんだ。うれしかったんだから。
「じゃ…、辛かったんだな、引退が」
泣きたい気持ちが、一瞬で身体中を駆け巡った。
震えが立ち上ってきて、視界が揺らいだ。






西浦高校野球部。
手放した場はあまりにも大きすぎて、居心地が良すぎたのだ。
だからこそ、離れてしまった今、
依存しすぎた故の弊害がでてきている。
身体にも、心にも。
表面的にはちゃんと笑えていたはずだから、
ちゃんと笑って終わりにしたはずだから、誰も気が付いてないと思っていた。
…でも気付かれていたんだね。
巣山はオレをずっと見てくれていたのだから。





「先生、来ないな。今日は火曜だから、職員朝礼長引いてるのかもしれねえな」
「オレ、大丈夫だから。教室、戻るよ」
ベッドから降りようとしたオレの肩は、巣山の大きな手で押し戻される。
「まあ待て。いい塗り薬を養護の先生が持ってたんだよ。チューブのやつ。
それちゃんと塗ってもらえ。湿布もしておいたほうがいいだろ。
オレは自転車取りにいくから」
「行っちゃうの」
不意に気持ちをそのまま言葉にしたら、驚いた表情でこちらを見てきた。
「…水谷」
「巣山といると、暖かい気持ちになるんだ」
例えれば、そうだな。
巣山の持つイメージは日溜まりにある1本の大きな木のようで。
生い茂る葉は風に揺れて、光をも様々な角度から揺らしながら
世界の色を柔らかくしている。
心をその太陽の光で暖かくして、幸せな気持ちになるんだ。
最近なかなか2人きりにはなれなかったから、
少し恥ずかしいけど思ったことはちゃんと言葉にしたかった。
「…オレ…」
言おうとした続く言葉は、保健室のドアの外、
響き近づく足音に切り落とされて何処かに落ちた。
「今日、一緒に帰ろうか。送らせろよ」
耳元で巣山にそっとそう囁かれて、固まったまま反応を返せないでいると
笑顔を残して、自分の傍から離れていった。
「送る」って、女の子みたいだと思うけど、
巣山はあまりそういうの気にしてないんだろうなと思う。
保健室のドアの外で、オレのことだろう、養護の先生と話をして
もう一度こちらを見遣って、軽く手を振り去っていった。




心臓のどきどきが響きすぎて止まらなくなるくらいに
巣山はあんなにもかっこ良いのに、オレはやっぱりかっこ悪い。




また、「好き」だと言い損なった。




何度もチャンスを逃しているうちに
オレは自分の気持ちすらも上手く掴めなくなっていた。
ほんとうに「好き」なのかが分からなくなってきた。
もしかしたら「好き」じゃない感情に
自分が支配されているのかもしれないと思ってしまうのだ。















「家、寄ってかない?勉強教えてよ」
文化祭も終わり、中間考査も近づいていた時期だったので
夕方、自宅まで送ってくれた巣山にそう持ちかけたのはオレのほうで。
逡巡していた巣山だったが、「いいのか?」と小さな声でそう訊いてきて
「いいんだよ」と笑顔で答えたら、照れたような顔をしていた。





コーヒーを淹れて、自分の部屋に出した小さな折りたたみテーブルの上、
巣山の座っているその前に置いた。
置いて、座り込んだまま、オレは動けなくなった。
巣山の袖口を掴んだまま、俯いて動けなくなった。
気持ちはもういろいろと誤魔化せない。
ひとりで元気な振りを続けていくのは、さすがに無理があった。
勉強なんか口実で、傍にいて欲しかった。
「水谷」
「ご…めん…」
目の前にいる優しい人の視線を痛いほど感じるけれど
顔を上げることが出来なかった。
泣きたくなかったから、いろんなことをただ我慢してきた。
みんなの記憶の中では、ずっといつもの「明るい水谷」でいたかった。
ただ巣山には我慢していたことをしっかりと気づかれていて、
だからこそ今、堰を切ったように抑えていた気持ちが溢れ出るのを感じていた。
「オレ…巣山の傍にいたいんだ」
「……」
「さみしいんだ。オレ、どうしようもなくさみしいんだよ」
抑揚のなくなった小さな声で呟いた。
「…っ、水谷!」
腕を引き寄せられ、強い力で抱き締められた。
自分を包む、指も手も腕も厚い胸も何もかもが温かかった。
その温もりは日溜まりの中にいるようで
巣山の姿を保健室の窓のとおくで見た、木々に重ねて
その向こうにあった太陽を思った。






「お前…ずっと辛い思いしてきたのに、加えてオレが迷惑かけて…ごめんな」
何を言ってるんだろう、巣山は。
あの月の夜の、オレを「好き」だと言った彼の言葉こそが
ずっと自分を支え続けてきたのだというのに。
彼の言葉だけが、自分を現実に押し留めてくれたのだ。
迷惑なんて、そんなことはないのに。
「な、何言ってんの。迷惑なんかじゃないよ、だってオレも…っ」
「…オレも……何?」
問われて、思わず身体を離し、顔を上げて巣山を見た。
彼の問いの意味するところはすぐに分かった。
「あ」
「何?」
「…意地悪だ、お前って」
たぶん全部を分かってて、こちらに問うている。
「ちゃんと言ってくれないと、分かんないぞ、水谷」
オレを見つめる真剣な眼差しに、オレも覚悟を決めた。
「オレも…好き、かもしんない」
「かも」
「だって!…よく…分かんないんだ。だってオレ、さみしいだけかもしんないし。
たださみしいから、傍にいたいと思っているのかも。…それって、酷いよね」
「いいんだよ、それで」
「そんな訳いかないよ。気持ちはやっぱ大事だよ」
「お前の気持ちはどんなんでもいいんだ」
「巣山」
巣山はそんなことを言いながら、オレの髪に優しく触れている。
空いていたもう片方の手で、オレの手を包み込むように握った。
見つめてくる、その視線が痛くて痛くてたまらない。
「水谷。お前はさ、オレという人間をちょっと誤解してる。
オレはそんなにいい奴じゃない。
傍にお前を置いてしまったら絶対に離せなくなりそうで、オレはそれが怖かった。
じゃないとお前…手を離せば、何処かに行ってしまいそうな気がするんだよ。
たぶんもうダメだ。きっとこのまま離さない。
そしていつかお前を滅茶苦茶にしてしまうかもしれない…」
「滅茶苦茶に…していいよ」
「馬鹿野郎」
「してもいいよ、巣山なら」
本気でそう思っていた。繋いだ手をこのまま離さないで欲しかった。
でなければ、きっと自分が嘗て居たあの場所に
いつまでも囚われたまま何処にも行けないだろうから。
巣山は、大きな大きな樹のようだと思う。
その大きさでオレを包んでくれないかと思うのだ。
「オレは、巣山の傍にいたいんだよ」
オレはそう言って、巣山の首に腕を回して、そのまましがみついた。
「巣山」
「……ん?」
「オレのこと、ちゃんと掴まえてて。じゃないと…」
「じゃないと?」
笑われるかもしれないと思いながら、その先を続ける。
愛の告白より、遥かに勇気がいった。







「じゃないと、オレは、
月に誘われてしまうかもしれない」







震える、声。
「わかった」
巣山は即答し、再び髪を撫でてくれた。
オレの頬を大きな両の手で挟んで、優しいキスを落としてくれた。
好きだという気持ちが、身体の奥底から湧いてきて。
血管のすべてを通って、自分を巡る旅に出る。
ああ、たださみしいだけじゃなかったんだ。
ちゃんと巣山のことが好きだったんだと、やっと確認できた。








それだけが、
オレにとっては救いだったのだ。












END

















つきのはな、たいようのき





お友達の寺脇さんの11月のお誕生日に
「何でもリクエスト権」を送りつけまして。
いただいたリクが
「巣山がかっこよすぎてどうしようって悶々してる水谷」でした。
書いたのが、『日溜まりの樹』です。
リクありがとうございました!
遅くなってごめんなさい。
気に入ってくださるといいのですが…ど、どうかな?




この話は「つきのはな、たいようのき」というシリーズの、
その中のひとつの話です。
巣水では大体3つのシリーズを頭の中に抱えていて
すでにサイト上で発表している「しろいつき」「In this Room」と
最後のひとつが「つきのはな、たいようのき」です。



このシリーズは私にとってとても特殊な話で、
(設定はちゃんと西浦で野球も引退した後とはいえ、やっていたのに
私の中でパラレル扱いです…めずらしい)
水谷がすごく変わり者(どこが変わっているのかと言われれば、難しい。笑)です。
これから先、水谷は段々と月に誘われていくという
そんな話だったりするのですが。わ、訳わかんないですよね。
水谷視点だったので書くのにすごく苦労しました(笑)
(巣水は巣山視点のほうが書くのは楽なのです)
淡々とほんと淡々と進行していくシリーズなので
書いても終わんないんじゃないかと思ってしまうくらいでした。
でも巣山が!
このシリーズの巣山がすごくすごく好きなので、書けてうれしかったです。
また何処かでぽろっと書ければいいなと思っています。



お付き合いくださってありがとうございました!









2006.12.21 up