The last alphabet of tomorrow 25
「Y」



『yes』









曇天だった。



幾重にも重なる雲は空を塞いでいて、
太陽の存在は遥か遠くに感じられた。



西浦小学校の誰もが朝から空を眺めていた。
そして、願っていた。
雨が降りませんようにと。





今日は卒業式だ。



卒業式の後、最後の帰りの会が終わると校舎間にある東門に繋がる中庭に、
式に参列した5年生や教職員が見送りに並ぶことになっている。
色とりどりのおはながみで作った花で飾られた手持ちのアーチを卒業生は潜り、
最後は拍手とお祝いの声に送られて、この西浦小学校を巣立っていく。
どうかどうか雨が降りませんようにと三橋は願う。
雨になると中庭は使えなくなるので、校舎内と渡り廊下での見送りになってしまう。
見送りの中身も気持ちも変わることはもちろんないのだが、
やはり空の下で最後の見送りをしてあげたかった。



「三橋先生、卒業式出るんでしょう?行きますよ!」
事務室のドアが開いて、級外の先生が顔を出す。
「は、はい!」
事務室内に視線を巡らすと、電話応対をしながら西広がこちらに手を振っていた。
篠岡は来賓へのお茶くみに追われている。
忙しいのに手伝えなくてごめんなさい、と心の中で頭を下げた。
けれどどうしても卒業式に参列したかった。
最後に阿部の姿をこの目に焼き付けておきたかったのだ。



卒業証書授与が始まり、ひとりひとり壇上に上がり、卒業生は名前を呼ばれる。
その際に将来の夢や中学生になってからのやりたいこと、自分の決意などを、
それぞれが大きな声で披露するのだ。
卒業スーツを身に纏った阿部の姿に胸が高鳴る。
「阿部隆也」
「はい!!」
声変わりはいつだったのだろう、少し低めの阿部の大きな声が体育館に響いた。
中学生になっても野球を頑張る、と続けてそんなことを言っていたように思うが、
言葉は耳を素通りしていってしまった。
阿部の姿から目が離せない。
お別れなのだ。
お別れだけど、三橋は泣くのを我慢していた。
笑顔で送り出すと、そう決めていた。



雲は更に厚さを増したように思えるが、
雨はまだ降らず、なんとか天気はもっているようだ。
事務室の自分の机の上には職員用のお弁当と紅白餅の小箱が乗っていて、
お腹はとことん空いてはいるが、まだ見送りが残っている。
普段しなれないネクタイで、首が絞まるのか呼吸が苦しくなるような気がしている。
午後は図書館で独りきりだし、
ネクタイははずしてしまおうかなと三橋はちょっと思った。
5年生は事務室横の廊下から見える中庭、
卒業生とその保護者が通る予定の2メートルほどの道を開けた両端に並び始めている。
2人がかりで抱えている花の大きなアーチがいくつも見えてきた。
アーチの芯は何でできているのだろうと昨年は考えていたように思う。
結局答えを確かめないまま1年が過ぎてしまった。
待っている時間は長く感じられるのか、
卒業生の真似をしてくぐって遊ぶ男子が何人もいる。
振りつきで踊っている女子もいて、横で5年の担任の先生方が苦笑いをしていた。
「三橋先生、お茶どうぞ」
篠岡の笑顔が側にあった。
「あ、ありがとう!」
「雨が降らなくてよかったですね」
「うん、よかった」
熱い緑茶をすすると気持ちが落ち着いてくる。
だが阿部の姿ばかりが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返し、
他には何も考えられない。
好きだけど、お別れなのだ。
阿部が4月を過ぎて図書館にやって来たとしても、もう自分もここにはいないのだ。



「三橋先生、篠岡さん、ぼちぼち集まっているようですよ。
事務室の番は私にまかせて、子供達を見送ってらっしゃい」
電話や来客の番に残った西広に促されて、中庭に三橋は出る。
「三橋先生〜」と手を振る女子の数人に、答えるように三橋も小さく手を振った。
その女子たちのいる辺りの並びに加えてもらう。
ちょうど列の中央辺りになり、いい場所だ。
「出てきた!」という5年生の声が上がる。
早く帰りの会を終わらせた卒業生たちが校舎から飛び出してきた。
誰もがランドセルを背負っている。
昨年の卒業式は皆手ぶらで学校へ来ていたように思うのだが、一体どういうことだろう。
よく見るとどのランドセルにも何かの文字がたくさん書かれていた。
寄せ書きなのだと気がついた。
保護者の姿も見え始め、待機場所にクラス別に並び始める。
待ち時間は長く感じるのだが、通り過ぎてしまう時間はきっと驚くほど短いはずだ。
その瞬間のために三橋は「おめでとう」と「ありがとう」の気持ちを、
たくさん抱えようとしていた。










「おめでとう!」のたくさんの声。
鳴り止むことの無い拍手が世界を覆う。
最後の帰りの会でもらったのだろう、
大きな花束を抱えた6年各クラスの担任教師を先頭に、
卒業した児童たちがこちらに近付いてくる。
三橋は阿部の姿が見えてくるのを待った。
映像でちゃんと記憶に留めておくことができるのかは不安ではあるけれど、
一生忘れないくらいの思い出にしたかった。



阿部のクラスの列が三橋のいる辺りまで近付いてきた。
名簿順なので担任教師のすぐ後ろに本人がいるのが分かる。
横にいる黒いスーツの女性が母親なのだろう。
「三橋先生っ!」
大きな声で自分の名が投げかけられる。
阿部の笑顔を視界の中央に置いて、三橋もまた笑顔を見せた。
寄せ書きで埋まったランドセルを背負い、左腕に卒業証書を抱え、
空いた右手を三橋に向けて高く上げていた。
「あ、阿部君!」
三橋も右手を高く、高く上げる。
2人は力強いハイタッチを交わす。
思ったよりいい音がした、と三橋は思った。
「先生、またな!!」
笑顔を崩さず、三橋は上げた右手を小さく振った。
おめでとう、さようならと唇だけ動かして別れを告げた。
列は慌しく押し流されていく。
阿部の姿をゆっくりと見送る間もなく、号泣状態の水谷が近付き、
「先生!オレ、中学入ったら、本、ちゃんと読むよ!!約束する!!」と、
司書にとってはとてもうれしい言葉を投げてくれた。
阿部の姿は三橋の視界の中で段々と小さく、遠くなっていく。



人波は東門の方に流れて行き、自分の目の前はもう生徒たちは通っていない。
遠くに見える児童たちにそこに居た誰もがずっと拍手を送っていた。












別れの涙を落とすように、
空が雨を落とし始めたのは夕方近くなってからだった。



午後の早い時間には卒業式の後片付けも終わり、教職員はそれぞれの仕事に戻った。
三橋は自分以外誰もいない広い図書館の中で、ネクタイをカウンターに放り投げたまま、
やりかけの仕事すら放ってカウンターの中で膝を抱え震えながら蹲っている。
雨の音は聞こえている。
思い出してしまうのは、細い雨が降っていた数日前のことで。
自分を抱きしめながら「ずっとここままでいれねぇのかな」、
そう阿部は言ったのだ。
「いれない、よ。阿部君は大人になって、いくんだよ」
同じ事を考えていたうれしさは置いておいて、
さすがに肯定はできずに素っ気無い言葉を返した。
腕を解いて、阿部は三橋を黙って見つめていた。
学校というものは「巣」でしかなくて、いずれは巣立っていかなくてはならない。
阿部にとっては今がその時なのだ。



「……ごめん、なさい、阿部君」
声は雨の音に紛れて霧散していく。
その後は声を殺して三橋は泣いていた。
結局、阿部には言えなかったのだ。
自分が学校図書館を3月末で退職してしまうことを。
だから阿部がこの図書館に4月を過ぎてここに遊びに来たとしても、
もう自分は何処にもいないのだとは言えなかった。
三橋は阿部の悲しむ顔を見たくなかった。
知らせなかったことで阿部がより悲しむのは分かってはいたが、
自分の気持ちのほうがどうにもならなかった。
何度も言おうとしたのだが、やはり無理だった。



こんなことじゃ先生失格だ、と三橋は思う。
たった1年ちょっとの短い期間ではあったけれども、
学校に係わる大人としてちゃんと「先生」でありたかったし、
そう努力もしてきた。
学校図書館司書は、公共図書館の司書と比べると、
その仕事の半分ほどは「先生」としての力量を求められる。
同じ司書であるのにいろいろな違いがあるのに最初は戸惑ったが、
今は学校と、そして子供たちに係わることができることに喜びを感じていた。
大好きだったこの図書館とも、別れの日々は近付いている。
自分で公共図書館に戻ると決めたのに、揺れ動く気持ちを持て余している。
今日だけ、と決めて三橋は、今はただ雨に紛れて涙を落としている。



「卒業、おめでとう」
阿部の姿を思い出しながら、三橋は小さな声を再び喉から漏らした。
「好き、だよ」
雨の音がかき消してくれることを願いつつ、
伝えることのできない想いを世界に向けて、そっとカミングアウトする。








ずっとこの場所にいたかった。



本当は自分も、時間を止めて、ずっとこのままで、
阿部の「先生」のままでいたかったのだ。














BGM : 音速ライン『優しい雨とこのままで』





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2011/4/29 UP





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