The last alphabet of tomorrow 19
「S」



『school』










渡り廊下を通る冬場の冷たい風は、他の場所より強く吹き付けていて、
三橋はいつも身を竦ませる。
お昼ご飯の後、給食室に戻す汁物が入る大きなアルミバケツの蓋が飛んでしまい、
追いかけたことも何度となくある。
両腕で必死に抱えたプリントも何度飛ばしたか分からない。
阿部たちが回収を手伝ってくれたこともあった。
就業時間も終わり、図書館を出て児童用の教室がある北校舎を足早に抜け、
三橋は事務室のある南校舎まで戻る。
これからの寒さ厳しい季節には、よけい風が冷たく感じてしまう。



事務室のドアを開けると、西広事務長から名を呼ばれた。
見ると片方の手で受話器を持っている。
「ああ、ちょうど良かった。三橋先生、電話です。1番、市立図書館から」
「は、はいっ!」
慌てて三橋は事務室内に入り、事務室にあるもう1台の電話に飛びついた。
電話に出るのは昔から大変に苦手で、仕事絡みとはいえいつも大変に緊張してしまう。
特に顔を合わせたことのない相手だと尚更だった。



受話器を置き、息を大きく吐いた。
自分の事務机は事務室にもあり、ここで毎日給食も食べているのだが、
その机の上に突っ伏してくたりとなった。
三橋に向かって西広から声が投げかけられた。
「最近、市立図書館からの電話が多いですね」
「あ、ご、ごめんな、さい!お仕事の場、なのに!」
がばりと上半身を起こす。
「もう就業時間は過ぎていますよ。だから篠岡さんもいないでしょう?
仕事に関係ない話でもなさそうですし。……何かありましたか?」
放課後の喧騒の中にあって、西広の落ち着いた声だけが三橋に届く。
「あ……、う……」
上手く言葉にできなくて、挙動不審になっている三橋だった。
「慌てなくて、いいんですよ。ゆっくりで」
外線電話が鳴り響くが、西広は取らない。
「で、でんわ、」
「職員室で取るでしょう」と、軽やかに電話を無視している。
職員室の方で取られたようで、すぐに電話のコール音は聞こえなくなった。
「お茶を入れましょう」と言って、事務室備え付けの流しに西広は向かう。
おかげで逆に逃げることが出来なくなった。
これはきちんと返事を待たれている。
もしかすると既に校長から話がいっているのかもしれない。
西広は「言わなきゃ、だめだ」の相手だった。



熱い緑茶が入ったマイカップを両手で包み込むように持つ。
2人で静かに茶を啜る。
三橋は冷えた身体を温めつつ、小さくではあったが深呼吸をする。
「再来年度に、市が、市立図書館の分館をひとつ、
立ち上げるのを、ご存知です、か?」
「いや」
「そこの開設に、係わらないかと、……誘われて」
「ああ、そういえば三橋先生は元々公共図書館の人でしたね」
産休代替要員としての三橋の小学校赴任だった。
学校の図書館は初めての経験で慣れないことも多く、いろいろと大変だった。
「実際は、動き出すのは夏くらい、からと言われてて……」
ここで西広は大きく頷いた。
「……でも年度途中で、抜けるのは、学校側にとって大変な、ことでしょう?」
「そうですね」
「っ、だか、ら」
言えない。
上手く言えない。
カップのお茶が手の震えを受けて小さな水面を揺らす。
西広が立ち上がり、笑顔を向けた。
「分かりました。切りのいい今年度末で退職、ということでいいんですね」
言えない言葉を察してくれた。
そのことにうれしさが体中に広がっていく。
立ち上がって、三橋はぺこりと頭を下げる。
「お世話に、なりました」
涙が出そうになるが、ここで泣くわけにはいかなかった。
「こちらこそ。……寂しくなりますね」
泣けないのなら、せめて頑張って笑顔でいよう。
終わりの日まで。
たった1年と数ヶ月だけの「先生」と呼ばれる日々だった。
「本当は、本当はもう少し、学校にいたかった。
先生で、いたかったんです」
阿部の姿が脳裏に浮かんだ。
「先生」と呼ぶ声が三橋の内の何処かで聞こえる。



3月末で学校を辞めることを、
「言わなきゃ、だめだ」の人間がもう一人いる。
阿部には言わなければならない。
彼が卒業して4月を過ぎたら、
自分はもう、この西浦小学校の図書館にはいないのだと。






言えるだろうか。



自分は逃げてしまわないだろうか。













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2010/12/2 UP





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