The last alphabet of tomorrow 15
「O」



『only』









十分に空には雲が満ちている。
雨が降ろうとしているのだろうか。



図書館から逃げ出したい、と三橋が思ったのは初めてだった。








三橋はカウンター越しに阿部と対峙していて、震えは足元から上ってきていた。
自分以外、誰もいなかったはずの午後の図書館。
使わないダンボールやセット物の図書が入っていた箱を潰しつつ、
カウンター内で纏めていた三橋の前に突然阿部は現れた。
どん、という音と共に2人の間に積まれたものは、いくつもの国語辞典。
阿部の横では同じく卒業生の女子がさらに腕一杯に同じものを抱えている。
「……なんでっ」
なんでいるの、と三橋は思う。
カウンターの奥に逃げようとして、阿部に腕を掴まれる。
瞬間、大きな音をたてて辞典の山が崩れ落ちた。
「逃げんなよ」




年度末も年度末で、学校は既に春休みに突入していた。
新年度を迎えるための忙しい時期で三橋も引継ぎのための書類作成や、
図書館の片付けなどに追われている。
山ほどのゴミや資源物などがゴミ置き場には入りきれずに、
校舎内の指定の場所に溢れかえるほどに積まれている。
誰もが新年度を迎えるために、この年度にリセットをかけようとしていた。





「ワリ。教室に戻ったら、オレは図書館にしばらくいるって言っといてもらっていいか?
ここちゃんと片付けてから戻っから」
阿部は三橋の腕を掴んだままで、隣の女子にそう言っていた。
女子は笑顔を見せて頷くと、
カウンターの空いたスペースに腕一杯に抱えていた辞典を下ろし、図書館を出て行った。
「なんでいるの!」
再会の驚きの為か、三橋は声を荒げてしまう。
会えたうれしさは気持ちの奥に潜んでいる。
「なんでって、教室の片付けするってんで、担任から数人呼ばれたんだ。もう人使いが荒くてなあ。
3月31日まではお前らは俺の生徒だ、とか何とか言ってやたらこき使うんだよ。
自分でやれよ、とも思うけど、まあこちらもいろいろ良くしてもらったし、
恩返しが出来てよかったかな。
クラス置きの国語辞典、この時期に回収するんだったよな、ついでに全学年回って集めてきたから」
「あ、……ありがとう」
4月からは新しいクラスになり、
次の担任に渡すので各クラスの担任教師は教室を片付けなければならない。
動ける児童を呼びつけて一緒に片付けさせる教師は珍しくはない。
阿部の担任教師は提出物はなかなか出さない、時間は守らないと自由奔放な型破りの教師だったが、
児童はもちろん、保護者からも絶大な人気があった。
阿部を図書委員会に放り込んだのも思い返せば彼だった。



「阿部君。辞書を片付ける、から、手、離して」
「いやだ」
乾いた喉から掠れた声が出る。
即答した阿部に、三橋は黙って眉根を寄せた。
「逃げないって約束して」
真顔で向き合う阿部に、三橋はこくこくと頷くことしかできない。
「散らかしたのはオレだから、オレが片付けるよ。
辞書ゾーンの一番下の空いた棚だよな。三橋先生は仕事してて」
阿部はあっさりと腕から手を離すと、国語辞典を片付け始めた。
自分はもうすぐこの場からいなくなるのだと、
そう言わなければいけないと分かってはいるのだが、
どうにもこうにも言葉も、声すら出なかった。



湿気を取り込んだ沈黙は、拡散せずに図書館内に漂っている。
2人の作業する音だけが響いている。
しばらくして、口を開いたのは阿部からだった。
「……なあ三橋先生」
配架が終わったのか、カウンターに再び顔を出す。
カウンター内に座り込み、資源物用の紙ひもと格闘しつつ三橋は顔を上げた。
阿部は笑顔を見せると、カウンター内に入り三橋の作業を手伝う。
間近にある阿部の顔をまともには見れなかった。
胸が痛い。
「受験終わったんでオレ、ケータイ買ってもらったんだ。
だから先生のケータイのメアドだけでも教えてくれよ」
すぐには返答できずに三橋は黙り込んだままだ。
「だってさ、もうここに遊びにきても……先生は、いないだろ?」
「!!」
「知ってるんだ、オレ」
四肢が震える。
阿部にもそれが分かったのか、頭を優しく撫でてくれた。
「いつ、から……」
搾り出すようにしてやっとのことで声を出した。
声を出せた。
「今日。うちの担任はお節介な奴でさ。
異動だとまだ内示だから言えないけど、退職だから良いだろって教えてくれた。
オレが1年間、図書館に嵌っていたの知ってたしなあ。
まあそのお節介がなかったらオレは図書委員にもなってねーけど」
阿部は知ってしまったのだ。
三橋は安堵の大きな息を吐く。
「ごめん、なさい。……言えなくて」
「学校辞めて、何処行くんだ?」
それには首を振って答えなかった。
「じゃあ、たまにメールしていい?」
「返事、返せない、かもしれないよ」
「……読んでくれっだけでいいから」
「うん」
素直に三橋は頷くことができた。
「今ここにケータイ持ってっだろ?
一度マナーモードになってなくて派手に放課後鳴らしたもんなあ。
出して。赤外線でデータ渡すから」
「う、うん」
2人はカウンター内にあるイスに腰をかける。
カウンター内に備え付けてある事務用の抽斗の中から携帯電話を取り出す。
上手く赤外線通信でのデータ送信ができなくて、阿部にその携帯電話を取り上げられた。
結局のところ、阿部が2つを持って操作している。
黒くてすっきりとしたフォルムの新しい携帯電話は阿部に似合っていた。
「オレのデータも送っといたから、確認だけはしといて。
メアドだけじゃなく、一緒にケーバンもゲットしちゃったけど、いいよな?」
「いい、よ。あり、がと」
携帯電話を渡されると同時に、阿部は手を握ってきた。
動悸がして動けない。
しばらく2人は見つめ合っていた。
阿部の黒い瞳に自分の姿が映っている。
繋いだ阿部の掌を熱いと感じてしまうのは、自分の掌がその分冷たくなっていることに他ならない。
別れの時はやってきた。
教室では皆が待っているだろう。
阿部は、戻らなければならない。



「さよなら、先生」
「さようなら」



別れの言葉は空から今にも落ちそうな水滴の代わりに、
2人の間隙にさらりと落ちる。
まるでその言葉に切り落とされるように、繋いでいた手が離れた。



出逢った場を離れて、お互いが巣立っていくのだ。
それは当たり前のことだった。









図書館を出て行く阿部の後姿を見つめて、視界から彼の姿が外れた後も、
三橋は何もできずに佇んでいた。



阿部が大人になった姿を思い浮かべて、
三橋は遥か遠い季節を思う。
自分が今まで抱えてきた常識を逸脱するくらい、
唯一の大事な人の幸せを願う。








雨が降ろうとしていた。
この雨は三橋が居る、西浦での最後の雨かもしれなかった。














ABCDEFGHIJKLMN
OPQRSTUVWXYZ




2011/5/14 UP





back