The last alphabet of tomorrow 14
「N」



『name』
(2010年11月29日泉お誕生日記念SS)









小さな音で、部屋のノックをする。
昔からのお約束はちょっと多目の5回。
返事はたぶんないだろう。
だが在室なのは母親に確認済みで、浜田はドアの前にどっかりと腰を下ろす。
秋晴れが続き、風は幾分冷たさを増しているが穏やかな季節だった。
「せーんせい」
小さな声では決してない。
ドアの向こう側の彼まで届くように、通るように。
願わくば、この呼びかけが彼の心まで届くように。
「泉先生〜」
どか!と大きな音がして、ドアが揺れた。
投げられたのは枕だろうか。
勝手にそれを部屋に入っていい合図と見なし、
浜田は立ち上がり、ドアノブに手を掛けた。




今日、1枚のプリントが西浦小学校から保護者宛に配られている。
急に給食の献立が変更になり、
品数が減ってしまっていたことに関する説明と謝罪の文章。
給食関連でお詫びのプリントの配布は大変に珍しく、
どこかにミスがあったのだろうと小学生の浜田にも容易に想像がついた。
それはやはりきっと、泉のミスで。
泉は学校給食栄養士、所謂学校栄養職員のまだまだ新人だった。





部屋に灯りは点いていなかった。
真っ暗な空間で泣いているのではないかと浜田は不安になる。
「なんでいる」
いつもより重い泉の声だな、と思う。
それが分かるくらいには2人の付き合いは長かった。
「……ばあちゃんの筑前煮、お裾分けで持ってきたんだよ」
嘘ではないので、ドア傍に立ちつつ淡々と答える。
段々と薄闇に目が慣れてきた。
窓からは南方の空に動きつつある月明かりが入ってくる。
ベッドには丸く掛け布団の塊が出来ていて、泉の存在が明らかになった。
「泉先生?」
瞬時に大きな音がして、ベッドの横の壁を蹴った音なのだと気付く。
ああ、いつもの彼だ、と浜田は安心したのだが。
夜も更けてきて近所迷惑になりそうでそこだけは心配している。
「せんせいって呼ぶな!……ちゃんと名前があんだろが」
布団の奥からくぐもった声が届く。
「先生と呼ぶな」とは何度も何度もこれまでに言われてきた。
学校に係わる大人はすべて「先生」という呼称がつくのだが、
泉にしてみれば、急に他人行儀になったようで寂しかったのかもしれない。
「名前、名前ねえ……、じゃ、孝介」
がばりと泉が布団を跳ね上げて起き上がる。
「ちょ、浜田!何でそうなるんだ!」
「孝介」
泉が押し黙ったのが分かる。
ここで灯りをつけたら泉は怒るだろう。
だが浜田は彼の表情が見たかった。
泉に近付き、ベッド傍に浜田は立つ。
「どこにも行かねぇから、ちゃんと孝介の傍にオレはいるからさ」
「今まで通りに泉って呼べよ」
「名前で呼べって言ったのはそっちだろ」
にっこり笑顔でそう返した。
薄明かりの中でも分かるほど、泉の頬は赤かった。
「子供はさっさ帰って寝ろ!早寝、早起き、朝ごはんだろが!」
「そう言う孝介もまだ晩メシ食ってねーじゃん。ばーちゃんの筑前煮食わねえの?」
「食う」
「ほら、起きた」
「起きてるって、うわっ…!」
ベッドから出て立ち上がろうとした泉がバランスを崩した。
浜田の方に倒れ掛かる。
小学6年生にしては大きく、大人並みの身長がある浜田だ。
細い泉を楽々と受け止めることができる。
「……お前、背」
言葉は小さく落とされる。
「え?」
「もうあんまオレと変わんない」
もう追い越してしまっているとは思うが、言及はしなかった。
「もっとでかくなるよ」
「なんなよ」
泉はものすごく嫌そうな表情をする。
ここ1.2年で浜田の身長はぐんと伸びてきた。
まだまだ伸びるだろう。
声変わりもいつの間にか終わってしまっている。
もっともっと自分はでかくなればいいと浜田は思う。
身体も、そして心も。
いつになったら、泉を守ることができるようになるだろう。
まだまだガキだけれども。
でも、いつかは。
「孝介」
抱きとめたまま、空いた左手で泉の頭を撫でる。
俯いたまま泉は動かない。
さらに撫でた。
微かだが泉の肩に震えがくる。
泣いているのだろうか。
だが声は立てないようにしているのが分かる。
負けず嫌いの泉が、悔し泣きを見せるのはきっと自分だけなのだ。
そう思うと浜田は少しだけ切なくなって、うれしくなった。



声を殺して泣いている泉が、愛しかった。
「愛しい」とはこんな気持ちのことなのだと、
やっと浜田には分かったのだ。










ABCDEFGHIJKLMN
OPQRSTUVWXYZ


泉、お誕生日おめでとう!
このまま「P(pattern)」へと続きます。
今度は泉視点です。



2010/11/29 UP





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