The last alphabet of tomorrow 11
「K」



『keep』
(2010年4月28日花井お誕生日記念SS)





季節は初夏に入り、雲が覆う空がある。
放課後の時間、天にあるはずの夕陽も朱の色に暮れている西の空も、
モノトーンの雲に覆われていて隠されている。
天気は下り坂なのか変に蒸していて不快指数は高いだろう。
梅雨の存在はあちこちに見え隠れしている。



校内回覧、決裁用にずらりと押印された山のような文書を抱えて、
その文書をそれぞれの担当者に戻すべく、花井は職員室を回り、
次に事務室に顔を出した。



顔馴染みの業者と話していた事務長の西広が、不意に窓の外に視線を移す。
窓の向こうには訪問者と職員用の駐車場が広がっているが、
何か気に掛かることでもあったのだろうか。
「花井先生」
「は、はい?」
西広に急に声を掛けられて、
花井は文書を挿んだクリップボードを落としそうになった。
「雨、降ってきたようです」
突然の雨音に花井も窓に視線を向ける。
「文書、預かります」と事務の篠岡の言葉に甘え、
クリップボードを預けて事務室を飛び出した。



学校の玄関横の国旗掲揚台には普段、国旗と市旗、
そして校旗が掲揚されている。
その旗たちが濡れてしまう、と花井は玄関から職員用の駐車場に出た。
アスファルトにいくつもの染みを作って、雨は降っている。
旗を降ろし、濡れて重い旗布を抱え、
急いで校舎内に戻ろうとした花井だったが、ふと人影に気づいて足を止めた。
「田島!?」
校舎の陰に隠れようとしている人物を花井は見逃さなかった。
「ちょ、待て!!」
その顔は濡れていて、泣いているような気がしたが雨のせいかもしれなかった。
「何処にも行くなよ!そこで待ってろ!」
言い捨てて、正面玄関から校舎内に入る。
玄関では篠岡が手を差し伸べつつ待ち受けていて、
その好意に甘えて旗を渡して再び雨の降る外に飛び出した。



「田島っ」
校舎の片隅にいる田島を見つけたのは、しばらくしてからのことだった。
まるで雨に濡れた子犬のように、俯いてじっとしている。
彼が所属する中学の野球部が、
夏に全国大会がある予選の試合を勝ち上がれなかったことは情報として知っていた。
まだ1年生の田島だったが、1番サードでレギュラーとして出たことも。
結果を報告しなければと思って、ここまで来たのだろう。
けれどなかなか声をかけられなかったのだろうと花井は思う。
「残念だったな」
「勝てな、かった」
「ああ」
さらりと花井は言葉を続けて投げかけた。
「お前が甲子園に連れてってくれるのを、オレは待っている」
田島は顔を上げる。
すぐに田島は雨で濡れていた顔を袖で拭ったので、
涙の存在は明らかにはならなかった。
深い色の瞳が、花井を見つめている。
「……花井。ほんとに?」
「まだ時間は十分にある。頑張れ」
花井の持つ大きな掌で、田島の髪を些か乱暴にかき回す。
そばかすを散らした顔が、笑いの表情を作る。
花井も笑みを見せる。
安堵の息を小さく吐いた。



失いたくなかったのは、この距離感なのだ。
離れてしまうのは、寂しい。
けれど昨年度のようにあまり近いところに居過ぎるのも、
田島のためには良くないとも思ってしまう。
程良い距離を保ったままで彼との関係を継続させていたかった。
「これ以上濡れると良くないよな、入るか」
花井は田島の手を引き、玄関内に導いた。
雨はひどくなってきた。
帰りには田島に置き傘を貸してやろう。










「ありがとうございました」
しばらく話して田島を返し、
事務室に戻った花井は真っ先に西広と篠岡に礼を言った。
雨に濡れた旗たちは、
事務室前のスチール製キャビネットの上に広げられて干されている。
「旗なんかいくら濡れてもかまわないんですよ」
「え」
「それより肩を冷やす方がまずいでしょう」
西広はそれだけ言うと、また業者との話に戻っていった。
おそらく田島がいたのを知っていたのだろう。
この才気煥発百戦錬磨海千山千魑魅魍魎とこっそり噂されている事務長は、
分かっていて自分を掲揚台に向かわせたのだ。
「……ありがとう、ございます」
花井は更に礼を重ねて、
篠岡から渡されたクリップボードの文書をはずし、
事務室内のそれぞれの机の上に配っていく。




雨は存分に降り続ければいい。
田島がもし泣いていたとしても、その涙を隠せるように。
将来甲子園に行くことができるかどうかはたいした問題ではない。
今の関係を持続させたままで、花井は、田島の傍にいたいのだ。









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OPQRSTUVWXYZ

花井、お誕生日おめでとう!



2010/4/28 UP





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