月篠あおい Side





今日が最初のいろは 48
「ん」



『我行かん。』







気が付くとあっという間にやって来ていた。
卒業を内包する春は、別れの季節だった。






「卒業生代表の答辞。……卒業生、起立!」
静まり返った体育館に教務主任の声が響く。
卒業生が一斉に立ち上がる。
いつもはだらだらしている卒業生たちも今日はさすがに動きがいい。
校長が壇上に静かに上がる。
「代表、花井梓!」
「はい!」
緊張しているのか、少々いつもよりは固い声の返事が聞こえてくる。
田島は教職員が揃う職員席から、
卒業生たちの前に設置されているマイクに向かう花井の姿を見ていた。



卒業式は開式から証書の授与、校長の式辞や来賓の祝辞、
祝電披露を終えた後に在校生代表の送辞、卒業生代表の答辞と続く。
送辞と答辞は現生徒会長と旧生徒会長が毎年担当する。
西浦中学校ではそれが慣例になっていた。



どこかにテンプレでもあるのだろうかと思うほどの、
お決まりの季節の話や入学してからの行事の軌跡、
周りの人々への感謝の文言に花井らしく味付けをして、そして。
「我行かん。」と花井は言うのだ。
私は私の道を行くのです、と。
自分の信じる明日に向かって。



その姿は余りにも眩しくて、田島は涙が出そうになる。
花井は自分を置いて行ってしまうのだろうか。
他の人間に梓と呼ばせたくなくなるほど、花井のことが好きなのに。



花井を好きになるのがすごく怖かった。
自分が自分でなくなるようでずっと怖かった。



光溢れる明日へと旅立っていく生徒を送り出すのが、
教師としての自分の役目だとそんなことは十分に承知している。
あの心地良かった場が既に自分達のものではないことも。








今日は大事な、人生の中でのひとつの区切りだった。
どんなに辛くても言わなければならないのだ。








卒業、おめでとう。












自ら省みて直くんば、千万人といえども我行かん。(孟子)







いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ  つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせすん












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2008/7/8 UP