月篠あおい Side





今日が最初のいろは 45
「も」



『問題』









「隊長!」
春を待つ、卒業前で慌しさは三割増の放課後の教室で。
肩をぽんと叩かれ、三橋が振り向くと笑顔の泉がいた。
「参加者とりんごの数、阿部っち日記にさっき載せといたからちゃんと見ろよ。
りんごの数はともかく、参加者の把握は一応な」
『りんご』。
卒業式を前に、その卒業式で阿部が泣くかどうかを
阿部っち親衛隊のみんなとそれ以外の有志で賭けている。
『りんご』はそのお金の単位だ。1りんごは10円。
といっても、勝てば全部もらえる訳ではなく、
集まったお金で阿部へのプレゼントを買うことになっていて、
そのプレゼントを選ぶ権利が与えられる。




参加者が誰かとか、りんごの数がいくつかとか気にする前に
三橋には解決しなければならない問題があった。
答えは目の前にいる泉が知っている。
泉ならば、怒らずにちゃんと答えてくれるかもしれない。
訊きたいことがある、と言いたい。
ちゃんと言いたいことは言わなければならないと、
阿部は三橋に教えてくれた。
「あ、……あの」
「どうした?」
「えと、き……きき……」
「待った」
そう言われて固まってると、泉は息をつき、
三橋の腕を引っ張って教室の窓際に移動した。
泉の席に座らされ、「待ってろ」と言って泉は教室を出て行く。



な、何かバカなことしちゃったんだろうか、と三橋は不安になった。
何も分からないままで待ち続けるのは辛い。
俯いてしまったら、涙が浮かんで落ちそうになる。



「三橋、ほら」
頬に熱く固い感触があって、慌てて顔を上げる。
視界には小さなペットボトルのアップルティーが揺れていた。
泉の心遣いは、三橋をどこまでも安心させる。
礼を言い、受け取って一口飲んだら、その熱で身体も心も温まった。
泉は三橋の前の席に座りイスごと後ろを向いた。
「そのりんご紅茶美味いだろ?で、どうした」
「……あ、あの」
「うん」
「『阿部っち日記』って、何のこと……?」
「あ?」
呆けたような泉の表情に三橋は震えた。
「ご、ごめんなさいっ。オレ、オレ、何に、も、知らなくてっ……」
「ああ、そういえばちゃんと説明とかしないままだっけ。そりゃ、悪かった」
「泉くん」
「オレが悪い。お前じゃない」
笑顔のままの泉を見て、やっと落ち着いてきた。
泉は携帯を取り出し、ボタンをいくつか押している。
「ほら」と、ディスプレイをこちらに向けて携帯を押し出してきた。
表示されていたのは、親衛隊の携帯サイトだった。



「サイトの存在はもちろん……知ってる、よなあ」
「う、うん!『がしゃがしゃコンパス』!」
サイト名の出所は、もちろん阿部が鳴らす大きなコンパスから来ているのだが。
このサイトを作ったヤツは調子に乗りすぎなんだと泉は言う。
「酔狂なコンテンツ名つけやがって、それが混乱の元なんだけど。
で、隊員の交流と連絡用にチャットルームと、」
「それ名まえ、『おしゃまな分度器』!」
「うん、それと掲示板が、」
「『さまよえる三角定規』!」
「そうそう、だからその掲示板のことを『阿部っち日記』って呼んでんの」
「……何、で?」
ぱたりと泉は机に突っ伏す。
「それがなあ三橋。サイト作った初め頃、
掲示板が阿部っち観察日記になっちゃってたんだよ。その名残っつーかなんつーか」
観察……という言葉に、目をパチパチしてみる。
阿部がもしも黒出目金なら、観察して日記をつけてみたい気がしていた。
泳ぐ姿は可愛いかもしれない。
「それもなー田島先生がちょくちょく面白いネタを落としてくれててなー」
田島先生も隊員だったのか、と、その時三橋は初めて気が付いた。
「阿部くん、も、隊員、なの?『阿部っち日記』のこと、訊いてた、けど」
「何だって?……どっからか本人に漏れてんな、ったく」
「オレ、何にも言ってない、よ!」
「……その辺はお前信じてっから。友達だもんな。
ちなみに阿部っちは隊員じゃねーからな」
「う……うん」
よく考えれば、そうだよね、と三橋は思う。
阿部の親衛隊なのに、阿部が隊員ってのは変な話になってしまう。




ふー、と息をゆっくり吐きながら、泉は三橋をじっと見つめる。
「三橋……」
「な、なに?」
泉は真顔で、まだ教室内に疎らに残っているクラスメイトには聞こえないよう、
顔を近づけて、小さな小さな声で三橋に言った。
「阿部先生のこと、好きなのか?」



笑顔の阿部が、三橋の脳裏に浮かぶ。
それはもしかしたら三橋にだけ向けられているのかもしれない。
優しい笑顔の彼だった。












いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ  つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせすん












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2007/11/27 UP