月篠あおい Side





今日が最初のいろは 38
「き」



『気長』











夜も更けた後の、静けさで世界が満たされていく時間だった。
半月が夜空を渡り歩いて、淡い光を地上に落とす。
季節は卒業式を目の前に控えたそんな頃。
優しく咲いている梅と桃を堪能し、桜と春を待っていた。



泉はオレ、浜田の家で、オレの目の前で、テーブルの上にある手作りの黒糖プリンを
大きなスプーンでぽよんぽよんと揺らしている。
「それでさ、『りんご』はどんくらい集まったんだよ」
「何でそんなこと知ってんだ」と泉の舌打ちの音と共に言葉は投げられた。
小さめのプリンはスプーンで一気に3分の2ほど掬い取られ、
んががっと大きな口を開けた泉に食べられていた。
「何でって、……田島先生」
「そっか、乱入以降仲良しさんだっけ」
「そ」
卒業式に阿部先生が泣くかどうかで阿部っち親衛隊の連中が賭けをしてると
そういう話を田島先生から聞いたのが数日前。
お金が関わっていて『りんご』が単位になっていると、
ちょっと様子を見ていてくれと西広先生から相談を持ちかけられたのが昨日。
つか親衛隊の発足に関わり、ほぼそのメンバーとなっている田島先生はともかく、
西広先生はどっからいろいろな情報をゲットしてくんだろうと思う。
賭け事にお金が絡むとなったら、
やはり教師として気になってしまうのは当然だろう。
親衛隊だけだとはいえ、他の生徒の間で噂になってもヤバイだろう。
「『りんご』って賭けのお金の単位だろ?1つっていくら?」
直球で泉に問いの球を投げてみる。
残りのプリンを口に流し込みつつ、泉は言った。
「10円」
「え?」
「りんご1個10円」
「ええ?」
「何か不満があんのかよ」
「それって、ちょっと安すぎね?」
「大人と一緒にすんな」
ああ、確かに中学生のお財布事情はよく分かってないけれど。
「泉」
「ん?」
「阿部先生が卒業式で泣いたか泣かないか、
当てた方に賭けたヤツらが全部その『りんご』をもらえるってことなのか?」
泉はオレをじっと見つめてて、しばらくしてようやく口を開いた。
「もらえるけど、使わなきゃいけない」
「あ?どういうことだよ」
「集まったお金全部を使って、阿部っちにお礼に何かを送るんだ。
卒業式のちょっと後にクラスの集まりもあるからそこで。
……親衛隊の解散式も、そこでやるんだ。やっぱ終わりはちゃんとシメたいしな。
賭けに勝ったヤツだけが、何をお礼にするかを選べるんだぜ」
……そういうことか……!!
「田島先生はそれ……」
「最初っから知ってるよ、当然だろ?」
こりゃ西広先生に心配御無用だと言わなきゃならないな。
笑顔の泉がすごく輝いて見えた。




「阿部先生は愛されてたんだなあ、生徒達に」
「過去形かよ」
「でもいーなー。オレも生徒から卒業記念になんかほしーよ。
3年でクラス持たねーとそんなのはムリかなあ」
「浜田、オメーは無くてもいいだろ」
厳しい一言が泉の口から発される。
「ええっ、でもそれってちょっとさみしーっ」
「オメーには……がっこを卒業したらオレをまるごとやるんだからさ、
今年はとりあえずそれでいいんじゃね」
「え」
顔を赤くした泉は、視線を落として俯いている。
「だから他のモン、あんま欲しがんな」
小さく震える声は、それでもオレの耳にちゃんと届いて。
「泉……」
テーブル越しに手を伸ばして、泉の頬に指を滑らす。
ますます頬は赤くなり、泉自身がりんごのようだ。
早く食べちゃいたいと思うけど、傷つけないで大事にしたいとも最近は思う。



「焦んなくてもいーんだよ。オレは気長に待つことにしたからさ」
泉は何にも言わず、俯いたままで、ただこくんと頷いていた。



だからオレの前から逃げないで、ずっと傍に居て。
それだけの願いを、オレは夜の空に向かって投げるのだった。








いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ  つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせすん












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2007/11/9 UP