月篠あおい Side





今日が最初のいろは 37
「さ」



『彩色』











放課後の、西の空が朱に染め上げられた時間だった。
グラデーションに彩色された空を、雲がゆっくりと横断していく。
季節は卒業式を目の前に控えたそんな頃。
優しく咲いている梅と桃を堪能し、桜と春を待っていた。



受験も終わり、阿部にとって、放課後の三橋との勉強会も最後の日になった。
生徒指導室の窓の外、桜の木はその花を咲かせる準備が出来ている。
春はすぐそこまでやってきている。



「勉強はもういいから、今日はちょっと訊きたいことがある」
そう目の前に座っている三橋に言葉を投げたら固まっていた。
「怒ってるんじゃねーから、固まんなよ。ほらお手」
反射のように指先を上に向け手を差し出す三橋を可愛く思う。
掌を重ね、阿部はそのままいつもよりは冷たく感じる三橋の指を握りこんだ。
「あ、阿部、くん」
「『阿部っち日記』って何のことだ?親衛隊は何やらかしてんだ」
最近の親衛隊の動向について、気になることが2つほどあった。
三橋は祭り上げられただけだとしても親衛隊の隊長だ。
何か知ってるかもしれないと思って訊いたのだが、
首を傾げたままきょとんとしている様子を見るに、案外何も知らないのかもしれない。
泉辺りに振ってみたほうがよかったか。
「……日記?」
「いや、知らないならいいんだ」
「うん」
「『りんごのひみつ』のほうは分かるか?」
三橋がびくりと体を震わせた。大きく何度も首を振る。
先程とは明らかに違う態度に、
『りんご』のほうには思い当たることがあるんだなと分かる。
親衛隊の名とと一緒に話に上る単語が最近2つほどあって、
その2つが『阿部っち日記』と『りんごのひみつ』だった。
「三橋。お前なんか知ってるだろ。『りんご』ってなんだ」
ぶんぶんと首を振って、振って、そして三橋は言った。
「阿部くん、が、好き」
「……」
「オレだけじゃ、ないんだ。
し、親衛隊の、みんなも、阿部くんの、こと、好きだよ」
たどたどしく紡がれる言葉を少しずつ心に入れていく。



三橋から好きだと言われると、
モノトーンだった世界が綺麗な色に彩色されていくような気がしている。
自分にとっての世界がだんだんと変化していくのだ。
三橋はそして「好きな気持ちは本物だからそれを信じて」と言う。
それはこれ以上追求するなということなのか。
「阿部、くん」
潤んだ瞳をこちらに向けて、哀願するように阿部を見つめている。
信じれなくてどうするのだと思う。三橋と、オレの生徒たちを。
「三橋、分かった。もう何にも訊かない。……だから泣くな」
ぽたぽたと落ちる三橋の涙を、阿部は空いているほうの指で受け止める。



「好きだ」と言葉にして三橋に伝えることが出来るその日まで、
卒業式当日までにはあと数日を残すのみ。
待ち続けた春は、もうそこまで来ていた。



今年度は阿部にとって特別な年だった。
三橋との関係を、先生と生徒という関係をちゃんと終わらせて、そして。
そしてまた、始めるのだ。








いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ  つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせすん












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2007/11/9 UP