月篠あおい Side





今日が最初のいろは 34
「え」



『遠慮』











バケツで作ったのではないかと思うくらい、
でっかい牛乳カンが泉の目の前に鎮座していた。
スプーンで殴りつけると微妙に揺れるこの物体には
牛乳がどのくらい使われてんだろうと、少々的外れな疑問も湧いてくる。
「遠慮しないで、どうぞ」
浜田の明るい声が飛んでくる。
ここは通いなれた浜田の部屋で。
まだまだ季節はの冬の色をしていて。




「バケツで作ったのか?」
「いや普通にボールだけどね。ちゃんとまあるいだろ。
牛乳今日余ってたらしくてもらってきたんだ。さあ召し上がれ」
「なんか……崩すのがもったいないな」
などと言いつつぽよんと揺らしていたら、浜田が頭を撫でてくる。
「そういう泉がオレは好きだよ」
「……オメーの作るお菓子を遠慮もしないで食ってたら、オレ太っちまいそうだ。
ただでさえ、受験直前であんま運動もしてねぇのに」
「太った泉も、大好きだよ」
にこにこ笑顔で、顔を寄せてきた浜田にでこぱっちんをおみまいする。
ふざけんな、と泉は叫んだ。
「いてっ、いてーよ。だってそうだろ?見目形は関係ないだろ」
「関係ねーのかよ」
「泉が泉であることが、オレにとっては大事なんだからさ」
何でこんな照れてしまう言葉をいい大人が吐いてんだろう。
泉は顔を少々赤くして黙り込んだ。




浜田は笑顔のままで、泉の前にいる。
漂う沈黙はとんでもなく鬱陶しくて、泉は口を開いた。
「……三橋がさ」
「うん?」
「欠席者の牛乳をゲット出来た時に、
阿部っちに持っていくようになっててしばらく経つんだけど…」
「その話、最初に聞いたの夏頃じゃなかったっけ」
「うん。こないだ一緒に数学を勉強して、渡す場面に遭遇しちゃったんだよ」
「へへえ」
「『怒んないで、笑って』って両の手のひらに牛乳乗せて。
阿部っちが最近あんまギスギスしなくなったのって、やっぱ三橋のおかげなのかなあ」
「ああ、そうかもな。素直っていいねえ。三橋の気持ち、真っ直ぐに届いてんだろうね」
浜田を見つめて、泉は黙りこくる。
あんな風に素直に自分を出せたのなら、人も変わっていくかもしれない。
言いたいことも言っているようで言えていなくて、
もうちょっと素直だったらなあと泉は自分のことを思ってみる。
ふ、と息をついて浜田は、泉からスプーンを取ると牛乳カンをひと掬いした。
「あーん…」
差し出されたスプーンに泉は抵抗せずに口を開ける。
口腔に広がるあっさりとした甘さが大変に心地良い。
「言いたいことがあるのなら、ちゃんと言っていーんだよ?」
たぶん、浜田にとっては何もかもお見通しなのかもしれない。
視線は逸らして、泉は言った。






「ずっと、傍にいろよ。オレを置いて、何処にも行くなよ」






浜田は満面の笑顔で、「りょーかいっ」と一言返す。
「はい、も一度あーんっ」
スプーンに掬い取られた牛乳カンが再び目の前にあった。









いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ  つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせすん












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2007/9/23 UP