月篠あおい Side





今日が最初のいろは 32
「ふ」



『不覚』











水谷が職員室の前の湯茶室から何かが入った丼を抱えて
栄口の前を鼻歌を歌いながら通り過ぎていった。
校舎の端にある保健室のほうへ向かっていくようだ。
その光景を栄口は見てしまった。
見なかったなら、戻ってきた水谷に不覚に突っ込むこともなかっただろうに。
「丼、どうしたの?」
お昼なら分かるのだが、今は部活も終わり陽も落ちた夜に向かう時間で。
「じゃあ栄口先生、一緒に食べよ?」
「……何を?」



司書の先生にもこっそり承諾を得てカギを借り、
くつろぎの場所となっている最近の図書準備室。
春に向かい、忙しくなるこの季節に集中して一人仕事する環境が欲しくて
そんな時にもよく使わせてもらっている。
水谷が乱入して度々一人じゃなくなってもいるのだが。
「牛乳係の千代ちゃんがさ、何故かよく分かんないんだけど
牛乳がたくさん余ってるって言うんだよ。だから作ったの」
そう言う水谷と栄口の間にあるのは、丼に入っている「ふるーちぇ」。
冷やした牛乳と混ぜて、ヨーグルトみたいにして食べるあれである。
「千代ちゃんトコには苺味を持ってったから、オレ達は夏限定夕張メロン味ね」
夏限定というのが気になる。いつから湯茶室にあったのか、その素。
賞味期限は切れてはいないだろうから、その辺はともかく。
栄口は、丼のままスプーンが二つ刺さったその「ふるーちぇ」を見つめる。
店屋物をとったり、カップラーメンをお昼に食べてる先生方はよくいるが
おやつを湯茶室で作る…という発想の先生がどれだけいるだろうか。
「一緒に食べよ?」
「水谷、せんせ。せめて分ける器を持ってくるとかさ」
「ここまで来たら湯茶室は遠いよっ…、一緒に、食べよ?」
「……はいはい」
溜息をつきつつ、栄口はスプーンに手を伸ばす。
甘いものはこれでも結構好きなのだ。



西浦中学校の校舎は、学校によくあるように長い校舎がただ並んでいるのではなく
ピロティーという壁の無い空間を挟んだ、
繋がっている5列の変則的な校舎の並びになっている。
図書準備室がある特別棟は、事務室職員室、そして湯茶室がある管理棟からは
校舎3つほど飛び越えないと行けないくらいに遠い。



「……あ、なかなか美味しい」
「でしょ?オレ、夕張メロン味好き。栄口先生はやっぱ定番のが好きだったりする?」
「そうだなあ、苺とか、桃とか」
「今度、一緒にケーキ食べに行こうよ」
「うん、いっけど」
「えへへ、デートだデート♪」
「ちょ、水谷先生、何だよ『デート』って!」



ここでまったりと水谷と過ごす時間が、栄口は決して嫌いではなかった。
あんまり居心地が良すぎて、離れるのが辛くなるだろうな…と思うくらいに
2人いるこの場所は大事な大事な場だったのだ。




そして春が来る。
春が、来る。










いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ  つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせすん












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2007/9/23 UP