月篠あおい Side





今日が最初のいろは 1
「い」



『意味』










「その『あべくん』ってのに、何か意味あんのか」
きょとんとしている三橋を前に、そう阿部は訊いてきた。
手には黒板用の大きな木製のコンパスを持っていて
時折がしゃがしゃ音をたてている。
2人っきり、放課後の生徒指導室。
三橋の前にはお決まりの数学ワーク。



「…どうして?」
問いに問いで返して、阿部に睨まれる。
三橋はびくりとして、肩を竦めた。
担任である阿部のことを三橋は、阿部先生とは呼ばずに『阿部くん』と呼ぶ。
「なあ、三橋。9組の連中はオレのこと何て呼んでる?」
「あ、あの『阿部っち』って…」
「うん、まあ、姓が2文字だとよくあるパターンだな。で、お前は?」
「阿部、くん」
「…何でそれなんだよ」
なんでかなあ…と三橋は自分でもそう思っている。
気がついたらそうなってたような気がする。
「阿部くんって、呼んだらダメかな?」
オドオドしつつも、阿部に向かってちゃんと言った。
言ったことはちゃんと、受け止めてくれるって知ってるから。
ちゃんと言いたいことは溜めずに言う。
そう三橋に教えてくれたのは阿部だった。




「う…いや、いいけどな。2人っきりの時とかは」
ちょっと頬を赤らめて、照れたように阿部は言う。
「でもオレ、泉君の前でも言っちゃう、よ」
「…まあ100歩譲って、その辺もよし、としよう。だがな」
「うん」
「他の先生の前では言うなよ。とくに水谷辺り」
「水谷…先生」
「わかったか」
ちょっと怖めの阿部の声にビクつきながらも、三橋は頷いた。
よく意味は分からなかったけど、阿部のいうことは正しいと思っている。
「今は、いいよね。阿部くんって呼んでも」
「おう」
「阿部くん、好き」
「おー、ありがとな。頑張ってワークあと3Pは終わらせような」
照れてる阿部を前に、三橋も顔を赤くしながら
ワークに再び視線を落とした。






三橋にとっては、特別な人の名まえで。
たとえその呼び名自体に意味はなくても。














いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ  つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせすん






2006/6/11 UP





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