月篠あおい Side





今日が最初のいろは 15
「よ」



『宵闇』










宵闇に紛れて、水谷先生の表情は見えない。
灯りもつけていない、夜に向かう時間の図書準備室。








「栄口先生、泣いてるの」
向こうが見えない、ということは
こちらのオレ、栄口の顔も見えていないはず。
返事をすることはできなかった。
一言でも言葉を発せば、その声の有り様で
泣いているのが分かってしまうから。





笑っていいんだよ、水谷先生。
泣いてるオレに気づいて、
いっそ笑ってくれればいい。





春の初めの暖かい日、夜を取り込んだこの宵闇が
表情だけではなく、オレの姿すべてをも
風景の中に紛れ込ませてはくれないだろうか。





ねえ、水谷先生。





もっともっとお前のこと
見ていたかったのに
そう何度も奇跡は起きなかったよ。




居心地が良くて大好きだったこの学校とも
お前とも、あと1週間でお別れになるんだ。





「栄口先生」
名を呼ばれて、その声が近いところから
聞こえていることに気がついた時には、
抱きすくめられていた。
強い強い力だった。











「離れたくない」
抑えた声がそう言った。
水谷先生は泣いていないようだった。
「離したくないんだ」
情けないけどオレはぼろぼろに泣いていて。
嗚咽が漏れるばかりで何も言葉を返せない。
「異動で学校が変わっても、オレの傍にいてよ」




「好きなんだ。好きなんだよ」
鼓膜に向かって言葉が落ちる。
それは水谷先生からの2度目の告白だった。









もう春が来ていた。
別れの春がやって来ていた。

















いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ  つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせすん






2006/11/9 UP





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