月篠あおい Side














もしも空を飛べたとしても。










『翼』 後編

(2008年12月19日浜田お誕生日記念SS)








桜花繚乱の季節だった。








闇を流し込んだ空には、満月になりかけの月が
地に落ちて不可視の太陽から淡い光をもらって輝いていた。
駅からの道を浜田はただ歩いていた。
自宅に近付くにつれ、気分が高揚していくのが分かる。
確信だけがそこにはあった。
きっと泉は自分の部屋にいるだろう。
「今夜は遅くなるから来れない」
「その代わり、明日は午前中だけ休みをもぎ取ったから一緒にいような」
遠まわしな誘い文句に泉は気付いただろうか。





だが浜田の中にいるもう一人の自分が、意識の底で警告を発す。
期待はしすぎちゃいけないよ、と。
泉はいないかもしれないよ、と。
そう予防線を張っていなければ誰もいない部屋に傷つくのは浜田自身だった。
過去の時間に相手は泉ではなかったけれども何度も何度も傷ついて来た。
今更それが増えようとも構わないと強がる自分が何処かにいた。
信じていたかった。
泉の一番は浜田だと、一番に自分を求めてくれるのだと信じていたかった。
確かめるのは怖く、今この時間に何処にいるのとメールをするのはさすがにできずにいる。
もし泉がいなくても、明日にはまた会えるだろう。
泉はどこにも逃げないよと不安がる自分を励ましつつ気持ちを強く持ちたかった。
立ち止まり、月を仰ぎ見る。
柔らかく注がれる光は勇気を分けてくれるようにも思う。
暫し見つめて、また歩き出した。
脳裏に浮かぶのは自分に向けられた泉の笑顔で、
それは記憶の中で輝いて浜田をいつも幸せの実感を持たせていた。




4月になっていた。
泉は高校生になり、既に2人の関係は先生と生徒ではなくなっていた。







春の夜。
もうさすがに「寒い」と形容するほど気温は低くはないのだが、
カギがかかったまま開かない自宅のドアの取っ手を掴んで、
その手を浜田は震わせていた。
期待はしすぎちゃいけなかった、と何処からか再び声がする。
開かないドア。
泉の不在の可能性が高くなった。
しばらくその場から浜田は動けなかった。
また熱を出しているのかもしれない、
明日になったら会えるだろうと自分で自分を慰めてみても、
鉛の重石を心身に流し込んだように、動けなくなっている。
「遅くなるから」というメールを出したのは紛れもなく浜田のほうで、
今日は会えないんだとその文面で素直に泉は解釈していたのかもしれない。
カギを出さなくちゃな、と強張る指を無理にでも動かす。
有るがままの寂しさを受け止めて泉を想いながら眠ろうと、
ドアを開けて重い体を動かし中に入る。
閉めて出たはずの寝室のドアが開いているのに浜田が気付いたのは、それからすぐだった。
ベッドに駆け寄ると掛け布団の中に大きなかたまりがあるのが分かる。
泉が、いる。




「泉」
部屋にも十分に満ちていた闇の中で名を呼んだ。
習慣となってしまったのだろう布団の中に手をいれて、泉の首筋を捜す。
掌に伝わる高めの温度を持った熱を感じる。
「泉、……熱い」
熱があるのに、ここまで来てくれたのだろうか。
自分に会うために、会いたいがために。
「熱いのはお前のせいだ」
言葉は掠れた声になって浜田の鼓膜まで届いた。
そして起き上がると泣きながら浜田に向かって両腕を伸ばし、泉は言ったのだ。
「……好きだよ、浜田」
南向きの腰高窓にかかった薄いカーテンから月明かりが徐々に差し込んでくる。
泉を柔らかく照らし、その泉の唇は更に動いた。
「おかえり」
視界に浮かび上がる泉の顔が不意に揺らいだ。
浜田は自分が泣いていることを自覚しないまま、泉を強く、強く抱き締めた。







今ここで浜田は、翼が欲しかった。




それは飛べない翼でもいい。
もしも空を飛べたとしても、
泉を幸せにできなければなんにもならない。
闇が静かに満ちる夜に目の前にいる愛しい人を包むことができるような、
そのくらい大きな翼が欲しかった。
泉を抱き締めるこの両腕は余りにも細く、
すべてを包み込むだけの大きさがないような気がしている。




浜田の頬に泉の指が触れる。
その指が微かに動く。
「オメーは……」
「ん?」
「オメーは、何で、泣いてんの」
声は今まで浜田が聞いた中でも限りなく優しくて、余計に泣けてくる。
「幸せだから、だよ」
「はまだ、」
「お前がいる、今が幸せ過ぎて泣けてくるんだよ」
言葉を零すと、泉は浜田の肩を押して体を離した。
拒否されたのかと一瞬過ぎる不安に身を竦ませる。
浜田の顔を暫しじっと見つめていた泉は、
数秒後にそれはそれはうれしそうな笑顔を見せた。




そのまま目を閉じてまるで充電が切れたように泉は眠ってしまった。
浜田の存在を確認したことで安心したのだろう。
ベッドに横たわらせた後も、浜田はしばらくは泉の寝顔を見つめていた。
さらりと額を流れる前髪を撫でつつ、浜田の内に広がる幸福感に酔いしれる。
「おかえり」という言葉があんなにも心に沁みるものだとは思ってもみなかった。




幸せになりたい。




そう切望していたのはいつの頃の自分だったろう。
その頃から泉は近いところにいたはずだ。
健康で、好きな仕事も愛しい恋人の笑顔も手に入れていて、
これで現在の自分が幸せではないとしたら余りにも傲慢だと浜田は思う。




スポーツ飲料はあとどのくらい残っていただろうか、とか、
熱さまし用のペンギンシートは、とかいろいろ在庫を頭で確認しつつ、
シャワーを浴びて自分も眠ろうとベッドから体を起こす。
おやすみのキスは可愛い泉の頬に、ひとつだけ落とした。
























眠りのため閉じられた意識の片隅に、現実世界へと誘う浮遊感が存在していた。
唇に柔らかい感触と仄かに伝わる熱がある。
それは神経を刺激する甘さを持っていた。
浜田が目を開けると、間近に泉の顔があった。
まだ闇に世界は支配されていて、
太陽の光が届くまでにはしばらくの時間があるようだった。
キスされていると自覚して、浜田の頬も熱くなっていく。
泉も浜田が目を覚ましたと気付いた瞬間、その顔を真っ赤にして飛びのいた。
「……おはよ泉。ってもまだ夜が明けてねーみたいなんだけどさ。
眠り姫が王子に起こされる瞬間ってこんな感じなのかなあ」
「ばっ、バカじゃねーのかっ!」
ニヤニヤ笑う浜田の額をべち!と音がするくらいはたいて、
泉は掛け布団の中に潜り込んだ。
どちらかというと姫は泉のほうだと思うのだが、される側も悪くない。
湧き上がるうれしさを抱えて、
丸まっている愛しいかたまりをぽんぽんと軽く叩きながら浜田は言った。
「泉はキレーだなあ」
布団ごと起き上がって、泉が怒鳴る。
「何言ってんだよ、オメーは!!」
「マジでそう思うんだけどな」
「……」
「いろんなもんがキレイで、純粋で。
壊したくないとも、逆に壊したいとも思うんだよ」
眉根を寄せる目の前の泉の腕を引っ張って、
浜田は泉を自分の腕の中に仕舞いこむ。
翼はなくとも、浜田のありったけで泉を包みたかった。
首筋に触れると、もう熱は下がっているようで安堵する。
もがいている泉の耳元で、囁くように続けた。
「その純粋なココロで、ずっとオレを好きでいて。
そうしたらオレも救われるような気がする」




泉はしばらく口を引き結んで黙っていた。
お互いの顔は間近にあって、
泉からただ見つめられると何ともいえない切ない気分になる。
「救われる…って、何からだよ」
「いろんなもんから。不意に思い出す辛い記憶とか、
いつも隣り合わせにある寂しさとか、未来への不安とかそんなもの全部から。
泉に好かれていると、まだ自分はちょっとはマシなんだなあと思えるから」
「お前は……大バカだ!」
喉から押し出したような泉の声は震えていた。
その姿に愛しさは増すばかりで。
「そんなこと分かっていて、それでもどうしようもないんだよ。
……オレはさ、泉」
「……」
「オレは西浦で教師になってよかったと思う。
お前が傍にいてくれたことにちゃんと気付けて……よかった」
「ばぁか!」
「何度でも言っていいよ。泉の『バカ』は愛情表現だもんなあ」
「ち、ちげーよっ!!」
「違うの?」
うううと唸りつつ、泉は腕の中から逃げようとする。
逃がさないよと心の中でこっそり言って、
浜田は起き上がり、泉を組み敷いて何度も何度も口付けた。
「なんか、……熱い」
くたりとなって、泉は横たわったまま動けなくなった。
頬を火照らせながらの泉の発言には、煽られるものがある。
「もっかいキスしていい?」
「いーよ」
浜田は逃げないな、とうれしくなりつつ更に訊く。
「……泉、もっと違うトコ、いろいろ触れてい?」
「っ!!ンなこと、いちいち訊いてんじゃねーよっ、ばぁか!」
足に蹴りを入れられて、痛いはずなのに浜田は笑ってしまった。
きっとこの夜は、一生忘れられない夜となる。












幸せになりたかった。






人は誰でも幸せになるために生きている。
この先の人生に何があろうとも、泉と2人で、
自分達の幸せの形を探していこうと浜田は思う。








いつも浜田の傍には泉がいた。




これからも、ずっと一緒にいるのだ。















浜田、お誕生日おめでとう!






BGMというより応援歌として : レミオロメン 『翼』








2008/12/19 UP





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