月篠あおい Side














たとえ空は飛べなくても。










『翼』 前編

(2008年11月29日泉お誕生日記念SS)








桜花繚乱の季節だった。







浜田の大きな両の手が首全体を包むようにして撫でていく。
ひんやりとした冷たさに泉は心地良さを感じている。
春の夜も更け切った時間、毎日というわけではなかったが、
ここしばらく泉の部屋に仕事帰りの浜田が訪れるようになっていた。
「浜田の手、気持ちいー」
「……7度は超えてるか?いい加減病院行かなくていーのかお前は」
「たいしたことねーって」
「まあガキの頃からなんか不調があるとすぐ熱出してるからなー」
「体温上がんのは夜だけだから、心配すんな」
泉を見つめる浜田の眼差しは心配そうで、無理に笑顔を作った。
熱があるかどうかは首筋に触れると分かるらしい。
泉は自分の掌を当ててみたけれども、7度を超すくらいじゃまったく分からなかった。
ちょっとぼーっとなってほわほわした気分なので言われて見れば熱があるのかなと思う。
「泉。季節の変わり目だからな、用心だけはしてくれよ。
怒涛の学年末でいろいろピークだし、どっかでちょっとでも仕事休んで、
ゆっくり一緒にいたいんだけどな」
「有休はいっぱいあんだろ?」
「それをなかなか取れないのが教師っていう職業なんだよ。
持ち帰りの仕事もかなり多いしなあ。ああ、でも三橋が昼は毎日来てんだろ?」
「うん毎日。入学前に国英数って課題問題集あんだぜ、入学式の後テストだもんなー」
「……そだなー」
「浜田、も、帰れ。明日も早いんだろ?仕事持ち帰ってんだろ?」
「お、了解。な、泉、キスしていい?」
「ん」
泉が頷くと、ほぼ日課となっている小さなキスが落ちてきた。
「あちーなやっぱ。じゃ、おやすみ泉」
「おやすみ」
泉はベッドの中で、手をひらひら振りながら部屋を出て行く浜田の背を見送る。
姿が視界から消えて足音も聞こえなくなってから、
「ごめん」と息だけの、声にはなりそこなった言葉を落とした。




浜田との間に大きな壁がある。
壁は、自分自身が作り出したものだった。









それは泉が思うに人生の道の途中、
境界を薄ぼんやりと曖昧にさせながらも存在する、高くそびえ立つ心の壁。
西浦中学校を卒業し志望校にも合格して、
本来ならば入学前ののんびりした時間のはずだった。




壁の前には膝を抱えて蹲っている自分の姿があった。
進むことも出来ず、今更戻ることも許されない行き止まりの現状になす術もなく、
増していく光の質量と共に桜花は、
泉がいる世界のあちらこちらで鮮やかに咲いていくのに、
気持ちは反対にどんよりと色を無くし沈んでいくばかりだった。
壁は「不安」の具現化なのだと気がついてはいた。
乗り越えれば、向こう側には浜田がいるだろう。







「4月になったらね」
もっとちゃんとした恋人同士になりたいと浜田は言っていた。
うれしさを感じて、その後に切なくなった。
それまで恋愛の経験がなかった泉には、
「ちゃんとした」という表現が何を指すのかがよく分からなかった。
現在の自分と浜田の関係が「ちゃんとした」ものではないことだけは分かって、
大人の浜田から見れば今の自分たちは、
おままごとのような『恋人ごっこ』でしかないことが悲しくて、
泉に自覚がないままの小さな傷をいくつもつけていた。



それでも、こんな自分でも、
ずっと傍にいると約束してくれた浜田。



安心感を抱えながら過ぎていこうとしている日々の、
その曖昧さと甘さが余りにも心地良くて、
浜田の望んでいるこの先へ進むことを泉の心は拒んでいた。
まだ昔というには記憶に新しい夏の季節に、逃げて終わらせることも叶わず、
かといってこれ以上自分から踏み込んで始まってしまうのも怖かった。
浜田の優しさに甘えるだけ甘えて中途半端なこの状態を、
イヤだとは思いつつもその実本音は望んでいて……、
4月を目の前に、その歪みは体調にまず現れた。



                        


昼間はともかく、夕方になると原因不明の微熱が出るようになっていた。
心配した浜田が夜、泉の元へちょくちょく寄るようになっていた。
早い時間の来訪には泉の母親のお誘いを受け、一緒に夕飯をとることもあった。
その頃、高校の合格者登校日に渡された問題集と共に格闘すべく、
同じ高校に通うことになっている三橋も、
こちらは昼間だが、毎日のように泉の家にやってきていた。
「熱、……大丈夫?」
今日も開口一番そう言って、三橋は泉の顔を心配そうに覗きこむ。
「へーきだって。さ、今日もやんぞ」
年度は替わり、4月になっていた。
数学の問題集に二人で必死に取り組む。
三橋は数学が苦手で、昨年は阿部がつきっきりで勉強を見てやっていた。
生徒指導室での勉強会にはたまに泉も混じり、西広に英語を教えてもらったこともある。
三橋が卒業してから全然阿部の話をしなくなったことに泉は気がついて、
それとなく話を振ってみた。
「阿部先生には最近会ってないのか?毎日オレんトコいるんじゃ、全然会えないだろ?」
「ハマちゃん、忙しい」
「ああ、うん。この時期は怒涛の忙しさだって言ってたな」
「だから、阿部くんも忙しいよ」
ただでさえ忙しいところに、
3年9組はバスケ部の2名ほどが楽勝のはずの志望校にうっかり落ちて、
3月後半の県立の2次募集を受けたという話は聞いている。
つまるところぎりぎりまで阿部はかなり忙しかったはずだ。
「でもメールとか電話はしてんだろ?」と更に訊くと黙って首を振る。
「……迷惑、……かけたくない」
かける言葉を無くして泉は黙り込んだ。
「それに、泉くんの方がオレ心配だよ。卒業してから、元気、無さ過ぎだろ?」
泉には三橋の気遣いが伝わってきて、温かいものがじわじわと心を満たしていく。
出会った時は引きこもりがちで自分の感情もなかなか表に出さなくて、
人の顔色を窺っておどおどとしてばかりいたのに、
今は逆に芯の強さを感じることが多分にある。
笑顔も多く目にするようになっていた。
「阿部先生なのか」
「え?」
「なあ三橋、阿部先生がそんなにもお前を変えたのか?」
しばらく三橋は黙っていたが、笑顔で、そして真っ直ぐな視線を向けて肯定してきた。
「うん」
明るい返事は三橋と阿部の現在の関係に希望を持たせることができるものであり、
その点においては泉はただ安堵できた。
三橋は窓の外を見つつ、テーブルに頬杖をついて一言だけぼそりと呟いた。
「……花は、咲いてるのかなあ」
桜は日に日に咲き誇り、ようやく満開の頃を迎えようとしていた。






その日の夜も更けて、浜田から「今夜は遅くなるから来れない」とメールが来た。
時期的に異動してきた教師の歓迎会でもあるのだろう。
わざわざ自分の家まで足を運ばせているという申し訳なさと、
それでも「会いたい」という自分の欲求は相反していて、
ほっとしつつも寂しさは抱えてしまう。
「その代わり、明日は午前中だけ休みをもぎ取ったから一緒にいような」という、
うれしい内容が続き、泉は携帯のディスプレイに表示されているその文面を見つつ、
口元が緩むのを抑えられなかった。
勉強する気にもなれなくて、ベッドに寝転がる。
夕飯も風呂も済ませていたので、このまま眠ってしまおうかとも思った。
ふわりと意識が揺れる。
吐く息は確かに昼の時間よりは熱く、体の内に余分な熱を持っているようだ。




気がつけば自分の人生のまだ長いとは言えない時間の、
記憶の中にはいつでも浜田の存在は確かにあった。
三橋にとっての阿部のように劇的に自分を変えていく出会いではなかったけれど、
2人で過ごした日々の積み重なったその歴史は、
泉にとってはかけがえの無いほどに大事なものだった。
「友達」とは形容し難かった自分達の穏やかな関係に、
恋愛を紛れ込ませてしまったのは泉で、どこにも戻ることはもうできなかった。




前方には壁があった。
自分の背に翼があれば飛び越えることができるだろう。
もう少しだけ、素直になれれば。




空なんか飛べなくてもいい。







泉はしばらく真っ暗な部屋で思考を逡巡させていたが、
やがてベッドから起き上がって、ジーンズとトレーナーに着替え上着を羽織った。
「浜田ンとこに泊まっから」と親に言葉を投げて、玄関でスニーカーを履いた。
5分ほどの時間を要す、浜田の家までの通いなれた道。
しばらく歩いて、公民館の桜木の傍で立ち止まる。
風に揺れる花弁がキレイだと思った。
もう数年浜田とは一緒に桜餅を食べてないことに思い至る。
だがあの頃より、浜田はずっと泉の近くにいるはずだ。
泉が空を見上げたら、そこには満月になりかけの月があった。









浜田の家に先日からとうとう持ち込むようになった、
パジャマ代わりのジャージに着替えて浜田の部屋、セミダブルのベッドに潜り込む。
もしかすると自分の部屋より居心地がいいのかもしれないこの空間で、
部屋の主は不在ではあるが、いつもより浜田を感じてよく眠れるような気がした。
起きて横に浜田がいたならば、ちゃんと「おかえり」と言えたらいいなと
そんなことを思いながら、ふわふわした熱と睡魔が泉の意識を満たしていくのを感じていた。




付き合い始めてからの、浜田から優しく注がれるばかりの愛を、
真っ直ぐに受け止めたいという自分の気持ちはある。
うれしくて、うれしくて、でも本当は苦しかった。
自分ばかりが幸せを感じるのは心苦しい、そういう苦しさがあった。
浜田は泉にとっては最初から「先生」ではなかった。
だからこそ、泉が西浦中学校を離れた今だからこそ、
きちんと向き合いたいと思うようになっていた。
泉は横になったまま膝を抱えてまるくなる。









浜田を、




浜田を幸せにしたいよう。







浜田が好きだから、熱があちらこちらにあるんだ。
何処へも行けず篭ってきっとこんなに体が熱いんだよ。




















「泉」
部屋にも十分に満ちていた闇の中で名を呼ばれた。
「泉、……熱い」
首筋に触れる大きな手は、浜田の持ち物だ。
冷たくて、冷たくて気持ちがいい。
鼻が詰まって目が腫れているような感覚がある。
どうして泣いているんだろうオレは、と泉は記憶を辿るが、
その記憶のかけらは睡魔に辿る端からもぎ取られているようだ。
「熱いのはお前のせいだ」
言葉は声になって闇の中にただ零れた。
泉は泣きながら浜田に向かって両腕を伸ばし、想いをさらに声にした。
「……好きだよ、浜田」










目の前にそびえ立つ高い壁を飛び越えることが出来る翼は、
果たして本当に自分の背中に有るのだろうか。














泉、お誕生日おめでとう!


『翼』後編(浜田視点)に続きます。





BGMというより応援歌として : レミオロメン 『翼』








2008/11/29 UP





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