月篠あおい Side














西浦中学校という、場。










『重なり』 










前年度と今年度の教職員の輪が重なる日が、
西浦中学校には1日だけあった。




4月1日。
この日から新年度であり、教職員にとっては新しい1年の最初の日になる。
異動した者は新しい学校に行き、新しい仲間と共にこの1年を歩みだす。
西浦中学校では前年度の送別会が毎年4月1日の夜にあり、
その夜だけは懐かしい仲間達の元に戻ることになる。




空は今日も快晴で。
桜は華やかに咲いていた。









1.朝




朝、栄口の前で水谷が拗ねていた。
「どうしたの、水谷?」
リビングの床に屈みこんで溜息ついて、尚且つ唸っている水谷を見て、
栄口は自分も一緒に屈みこんで頬に小さなキスをした。
水谷の家で一緒に暮らし始めてまだ数日だけど、
自分の内で確実に何かが変わっている。
「どした?」
「昨日まで一緒に西浦に通勤してたのに、どうして今日は別々なんだろう」
「……って、今日から新年度なんだからしょうがないだろそれは」
「オレひとりで行くの寂しい」
「お前学校まで遠いんだから急げよ間に合わないぞ!新年度初日から遅刻する気か!」
「いいよね栄口は近くてさ。オレもそっち通おうかな」
「水谷せんせ!」
「ああっ、せんせ付けた!わざとつけた!オレ悲しい!」
ああもうバカなんだからと呆れつつ、そこが好きなんだけどと思いつつ、
がっしと水谷を抱き締めた。
「バカだなーもう。これからもずっと一緒にいる、傍にオレはいるから」
「……頼れる人が減っちゃって、オレちゃんとやってけるかなって不安なんだよ。
阿部先生に苛められたら誰が庇ってくれんだろ……」
項垂れる水谷を見て、栄口も小さく溜息をつく。
「そうだね」
「西広先生もいないんだよ」
「うん、ほんと、そうだねぇ」



西浦に来て2年しか経っていなかった西広に県の教育委員会への異動の内示が出て、
自分達が早々に学校を抜けても気付かれないくらいには、
3月末、あの日の職員室は大騒ぎになっていたのを思い出す。
「西広先生持ってった相手は県教委だからしょうがない、けどさあ……」
栄口は力なく落ち込んでいる水谷のほわほわした頭を撫でた。
「夜の送別会でまた会えるから、ちゃんとお世話になりましたって言うんだよ」
「……うん、そうする。がっこ行く。ありがと。好きだよ」
ちゅ、と音を立ててキスが唇に返される。
重なるその暖かさも柔らかさも、そして気持ちも、
照れてしまうけれど栄口にとってはうれしいものだった。
「!……早く準備しろよ!」
「りょーかい。あ、そうそう。夜、阿部先生んトコに車停めてから送別会来てね。
三次会も3人でだって。だとすると確実にお泊りだろうから。
お誘いというか命令というかさ……」
ぶつくさ言いながら水谷は立ち上がって、クローゼットの方に向かった。
「……分かった」と、栄口は言葉を返す。
本当は言外に質問がひとつあったのだが、
これ以上時間を潰させる訳には行かなかったので敢えて何も言わなかった。



「阿部せんせにオレたちの同居の話はちゃんとしたのか?」



その問いは、栄口の口から発せられないまま、穏やかな春の空に溶けていく。









2.午前





「バラが、……お好きなんですか?」



新しく西浦中学校に異動してきた年配の女性教師からそう問われて、
周囲の爆笑の渦の中心で、阿部は返す言葉もないまま固まってしまっていた。
朝からの今年度最初の大事な職員会議の後、職員室内で机の大移動がある。
新しい学年別に島が出来るように並べられる机。
3年から1年に降りてきた阿部の隣の席がその教師だった。
阿部の机の上を暫し凝視した後に発せられた問いが先程のそれだったのだ。



机の上はバラ尽くしだった。
場所をやたらとっているたくさんのドライフラワー。
そのバラの色はピンクだった。
花瓶は淡いピンクのまろい石にバラのレリーフ。
写真たても同じシリーズのものらしく、生徒と写った写真が入っている。
もうひとつ写真たてはあって、白のレースで覆われたフレームに、
立体のピンクのバラが飾られている。
所謂ピクチャーフレームというやつで、何枚かの写真を飾ることができる。
これにも生徒達との写真が入っている。
たくさんの筆記具が刺さっているマグカップもピンクのバラ。
その傍には天使とバラの置物がいくつも鎮座している。
極めつけは小さなバラ付きふわふわピンクおりぼんで飾られたピンク色の計算機!
阿部本人の印象とは余りにも違う上、机の上は異様な世界となっているので
その雑貨達が飾られている経緯を知らない教師が、
思わず訊いてみたくなるのも無理はなかった。




「大事な、……もらいもんなんですよ」
「あらあ、彼女?『机に飾って』ってお願いされちゃったとか?」
「いや、……あの、卒業生からで……」
「まあ」
上手く答えられずに阿部が視線を逸らすと、
腹を抱えて笑っている田島と水谷の姿が視界の端に入る。
「田島っ!水谷っ!!お前らが笑ってんじゃねぇ!!」
立ち上がり怒鳴ると職員室はさらに大きな爆笑の渦に包まれた。







「学校に、大事に飾ってくださいね」とそんなメッセージつきで、
阿部っち親衛隊の解散式で三橋から受け取ったのが、
何十本ものピンクのバラの花束と数々のバラグッズたちだった。
誰かに謀られたような気もしないではないが、
もし万が一三橋が一生懸命自分のために選んでくれたプレゼントかもと思うと、
しばらくは恥をかきつつ飾るのも悪くないかなと阿部は思っている。
だが解散式の後、一部の奴等に『薔薇の君』呼ばわりされていたりして。
それはさすがに許容範囲外で、田島辺りをシメたりしたのだが。
三橋と、その仲間たちは大きな思いを阿部の中に残して卒業していった。
飾られた写真に三橋との思い出の情景が重なる。





写真の中の三橋は阿部の大好きな笑顔で、
それが何よりもうれしかった。









3.午後





浜田がランチのハンバーグを頬張っていたら、
目の前の席にいた阿部が話を振ってきた。
「浜田、お前2年に上がらなかったんだな」
「……残留っス」
1年の担任副担任の皆で、遅めの昼ご飯を外で食べつつ昼休憩を取った。
浜田の答えに阿部は頷きながらカレーを口に運んでいた。
「持ち上がりもいいんだが、3年の担任は命削られていくからなあ。
やりがいはあるんだが。落ち着く暇もなく、すぐに新年度だ」
「県立二次募集の合格発表が数日前だったんすよね。
それまで阿部先生の携帯しょっちゅう鳴ってて驚きました」
「本番で大コケしやがったヤツが数人いてなあ……。
本当は全員希望の進学先に入れてやりたいんだが、
なかなかそう上手くはいかないのが辛いところだな」
「そうっすね」
「泉は良かったな、希望のとこに合格して。……元気にやってるか?」
「はい。……三橋と同じ学校ですよ、阿部先生」
「そうだな。新しい高校生活には不安もあるだろう。
三橋を支えてやってくれと泉に伝えてくれないか」
「阿部先生は、もう三橋の支えにはなってあげないんですか」
在学中には三橋をあれほど構っていた阿部。
だが卒業してしまえば終わりなんだろうか。



「……三橋が望めば、それもありだろう」
阿部は暫しの沈黙の後に、やっとそれだけの言葉を零した。



笑顔で巣立っていけるように、
生徒を育て見守ることしかできない教師というこの職業について、
浜田はやっと2年目を迎えていろいろと考えることができるようになっていた。
残された者はいつも悲しいのだ。
うれしさの中にも必ず悲しみは内包されていて。



中学校の教師は、ずっと浜田が憧れていた職業だった。
新任教師としての最初の1年をこの西浦中学校で過ごせたことは、
浜田の中で大きな糧となっている。
これからも様々な生徒や仲間の教師との出会いがあるだろう。
忘れられない思い出も増えていくだろう。
経験をこれからも重ねていって教師として更に成長していきたいと、
そう浜田は思うのだ。









4.夜





前年度を一緒に頑張ってきた仲間たちとの、
最後の宴は始まっていた。




他のフロアでも近隣の小学校の送別会が行われている。
転退職者は会場の上座に設置された雛壇に席があり、
食事も他の人より少しは豪華だった。
誰が作ったのだろうか、桜の花をモチーフにした自分の名の入った名札を、
西広は黙って見つめていた。
校長による転退職者の紹介の後、グラスにビールが注がれ、皆立ち上がる。
いつも柔らかな笑顔で校長と仲良しほわほわコンビと呼ばれている、
女性教頭が乾杯の挨拶を始めた。
もう1人の教頭は万歳三唱の係となっているはずだ。
「乾杯!!」
グラスの触れ合う音があちこちで響く。






西広の異動を知って、一番拗ねていたのは田島だった。
内示の情報が飛び交った直後、
職員室ではマズイと思ったのか、保健室にいる時に直撃された。
「来年の文化発表会を楽しみにしてるってオレに言ったのに……!」
「楽しみにしていますよ、もちろん。何してるかこちらにも伝わりますからね」
「……マジか」
「ちゃんと、見ていますよ」
呆然としている田島に笑顔を向ける。
実際は余程でない限り、教育委員会までは伝わるはずもないのだが。
ただ篠岡から西浦の状況はこれからも聞けるので、まんざら嘘でもなかった。
書類整理をしていた篠岡を見て西広はぺろりと舌を出す。
穏やかな笑みが返ってきて、それがうれしかった。
「多少の羽目ならはずしてもらっても構いませんよ、田島先生」
田島のその真っ直ぐな目の輝きが失われないのなら、それが1番だと思う。
若さ故に持てる教師としての熱い気持ちは今後も大事にしてほしいと、
そう素直に思っていた。
西広は自分が教師になりたての、
情熱を抱えて突っ走っていた頃の姿を彼に重ねる。



今も田島からの射るような視線を感じている。
真っ直ぐにこちらを見ている。



しばらくの歓談の時間を経て、転退職者、一人ひとりの挨拶が始まる。
西広の番になり、用意されているスタンドマイクの前に立った。
自分のために用意されているのだろう大きな花束を持った、
同学年の教師の姿が視界に入る。
「失礼します」と軽く頭を下げる。
初めての異動の時のように、切なさがじわり、沸いてきた。
同じ雛壇の横にいた栄口が心配そうにこちらを見ている。
思い出が巡る。
たった2年の時間だったけれど。
思い出はただ、駆け巡る。



「この学校は素晴らしい学校でした。大好きでした」



昨年までに異動になった教師の何人もが、
泣きながら同じ言葉を皆に対して残していた。
そして、自分も。












西浦中学校は素晴らしい学校だった。
幸せを抱えて思いを重ねてきたこの学校を、
今去ろうとしている。




生徒達と同様に、
教師もまた、卒業していくのだ。









5.夜中





二次会もお開きになって、持ちきれない程の大きな花束を栄口は抱えて、
自分にとってうれしすぎるくらいのたくさんのもらった言葉も、
もちろん気持ちも、人が人と場を大事に思う気持ちも抱えて、皆の輪から離れた。
「ありがとう!」
別れ際、栄口は手を振り、皆に向かって叫ぶ。
横で水谷が泣いていた。




ひとり暮らしの阿部の家で3人きりの三次会だった。
実質2人の、それは静かな時間だった。
「水谷と一緒に暮らしているって……本当なのか」
ブランデーをちびちびやりながら問うてくる酔った様子のかけらもない阿部を、
熱い緑茶を啜りながら、どこまでザルなんだと思いつつ上目遣いで栄口は見つめる。
「それ本人に訊いたの」
「本人に直接言わせようとしてこの状態だが」
阿部が指差した先は床に座り込んだ栄口が背にしているソファ、
水谷が酔いつぶれてブランケットにくるまりすやすやと眠っている。
たまに何やらむにゃむにゃ言っているような気がする。
赤いままの涙の跡がある頬に触りたくてたまらないのだが、
阿部が見ているのでさすがにそれは控えた。
「確かに酒に酔わせたほうが本音を吐きやすいのが水谷せんせだけど、
ここまで飲ませたらそりゃ撃沈するだろうなあ。
……いやだから!なんでその事実を知ってるんだって言いたい」
「西広御大」
「……もうあの人はどっからどこまで……つかどっから、」
「保健室辺りで誰かが口滑らしたんじゃねぇのか」
それはとんでもなく有り得そうで、額を掌で覆って小さく唸った。



「阿部せんせ」
「ん」
「水谷せんせをこれからもよろしくお願いします」
阿部に向かって頭を下げた。
今まで水谷のことをフォローしてきた自分も西広も、西浦を離れていく。
頼りになるのは水谷の大学からの先輩である阿部だけだ。
「……分かってる」
その返事を聞いて栄口はようやく安心し、大きく息をついた。
「送別会も終わって、本当に西浦とはお別れなんだなあ。
水谷せんせじゃないけどやっぱ寂しいよ」
「残る方も寂しくないわけじゃないぞ」
阿部の呟きに、栄口は同意する。
「そうだねぇ。出会いと別れがあって、場が動いて、
でもそれが人生なんだよね」
「ああ、そうかもな」
阿部は深く頷いた。








春は来てしまった。




窓からは少し朧がかった月が見えていた。
桜は春の時間の中で華やかに咲いていた。
満開の時もすぐだろう。








西浦中学校という場は、
たくさんの教師や生徒達の人生の時間を重ねていく。
これまでも、これからも。
その重なりはやがて幸せな記憶となって、
いつまでもいつまでもそれぞれに、思い出という形で残る。






光となって、残るのだ。









「西浦中学校物語」 END














花の季節にお別れです。
また会いましょう。お元気で。



本編はこの話で終わりです。
ここまで読んでくださってありがとうございました。








BGM : スピッツ『漣』
(西浦中学校物語のエンディングテーマはぜひこの曲で!笑。
曲のイメージがぴったしなのでした。「さざなみCD」に収録されています)







2008/4/1 UP





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